Viva!! 80s – Hard rock / Glam metal

 

 

 

今回は、80年代に活動していたアメリカ、

ヨーロッパのハードロック、ヘヴィメタル、

グラムメタルのバンドを紹介します。

 

 

 

 

 

 

W.A.S.P.

W.A.S.P. (ワスプ)は、アメリカのヘヴィメタル・バンド。

1982年、Blackie Lawless(ブラッキー・ローレス、

本名:Steven Edward Duren、1956年9月4日- )を中心に

ロサンゼルスで結成された。

バンドは80年代初頭、ロサンゼルスのヘヴィメタル・シーンから

出現し人気を獲得。その後もレコード・リリースとツアーを続け、

ウエスト・コーストで最も長きにわたり継続するヘヴィメタル・

バンドの1つに挙げられている。

 

 

1984年、セルフタイトルのデビューアルバム『W.A.S.P. 』をリリース。

1984年4月、イギリスでシングルリリースされオープニング・トラックと

なる予定だった『Animal (Fuck Like a Beast)』は、PMRCの標的となり

物議を醸したため、アルバムに収録されなかった。

I Wanna Be Somebody』、『L.O.V.E. Machine』のミュージックビデオは

MTV上でオンエアされ話題となった。

アルバムの曲のいくつかは他のバンドによってカヴァーされており、

『Sleeping(In the Fire)』はTiamatAnders Mangaに、 『Hellion』は

Children of BodomとIn Aeternumに、『L.O.V.E. Machine』はFallen Man

Lullacry、Fozzy、Alghazanth、『I Wanna Be Somebody』はSentenced

Catamenia、WitcheryAvulsedGates of Ishtarに、

『The Torture Never Stops』はTorture Divisionにそれぞれカヴァーされている。

アルバム『W.A.S.P. 』はビルボード200で74位に達し、1998年6月4日、

RIAAよりゴールドに認定された。

 

 

バンドのテーマとするショック・ロックに対するイメージや歌詞、

ライヴは悪評を得るが、現在までのアルバムセールスは1200万枚に

達している。

初期のラインアップはブラッキー・ローレス(Vo、B)、Randy Piper

(ランディ・パイパー、G)、Chris Holmes(クリス・ホルムズ、G)、

Tony Richards(トニー・リチャーズ、Ds)。

バンドは幾度もメンバー・チェンジを繰り返しており、現在、

オリジナルメンバーはブラッキー・ローレスのみとなっている。

 

 

ブラッキー・ローレスはニューヨーク州スタテンアイランド

出身のロック・ミュージシャン。身長193cm。

へヴィメタルバンド、W.A.S.P. (ワスプ)の創設者。

当初はリード・ヴォーカルとベースを担当していたが、

ランディ・パイパーの脱退に伴いベースからリズムギターに

パートを変更した。

デビュー前にはモトリー・クルー結成前のニッキー・シックスと

バンドを組んでいたこともある。

以来何度もメンバーチェンジを繰り返しながらも、現在まで

バンドの中心人物として、作詞・作曲、バンド・イメージの演出も

全て手がけている。

 

 

美しい旋律と品のないステージ・パフォーマンスギャップに定評のあるW.A.S.P.
W.A.S.P. – Tormentor

 

このミュージックビデオを初めて見たとき、鬼の形相で歌うブラッキー・ローレスに
軽い衝撃を受けました
W.A.S.P. – Wild Child

 

 

 

 

 

Mötley Crüe

Mötley Crüe (モトリー・クルー)は、アメリカのヘヴィメタル、

グラムメタルバンド。カリフォルニア州ロサンゼルスで結成された。

1981年、ベーシストのNikki Sixx(ニッキー・シックス)は

Londonを脱退後、Suite19に在籍していたドラマーのTommy Lee(トミー・リー)、

ヴォーカリスト、ギタリストのGreg Leonを誘いバンドを結成。

直後にGreg Leonが脱退。ニッキー・シックス、トミー・リーは新しい

メンバーの募集を開始。募集広告を見てオーディションを受けた

Robert Deal、のちのMick Mars(ミック・マーズ)をギタリストとして

バンドに迎える。

そして、ミック・マーズはトミー・リーのCharter Oak High School時代の

友人でRockandiというバンドのリードヴォーカルであったVince Neil

(ヴィンス・ニール)のステージを見て気に入り、彼の加入を提案する。

ヴィンス・ニールは最初はその申し出を断ったが、Rockandiのメンバーが

それぞれの活動を開始したことで不安になり、結局申し出を受け入れる。

バンドにはまだ名前がなかったので、ミック・マーズが以前在籍していた

バンド、Whitehorseが諸事情でMottley Crooと変名、のちにスペルを

わずかに変更したMotley Cruを提案。

さらに、メンバーがその時飲んでいたドイツのビールLöwenbräuに

インスピレーションをうけたヴィンス・ニールのアイディアにより

2つのメタル・ウムラウトをつけ、結果的にMötley Crüeに決定する。

1982年、メジャーレーベルのエレクトラと契約、『Too Fast For Love』を

リミックスし再リリースした。

 

 

ザクザクしたギター・リフにキャッチーなメロディ、レザーの

ステージ衣装といういで立ちに加え、70年代に主流となったグラム・

ロックの派手なメイク。そしてヘアスプレーで大きく膨らませた

髪になぞらえ”Hair metal”(ヘア・メタル)と揶揄された彼らの

スタイルは多くのフォロワーを生み出し、同じスタイルのバンドが

続々登場、80年代グラムメタル、ハードロックの一大ムーヴメントを

巻き起こした。

日本では、「LAメタル」と呼ばれるバンドの代表格として圧倒的な

人気を獲得した。

代表曲は『Shout At The Devil』、『Home Sweet Home』、

Girls, Girls, Girls』、『Kickstart My Heart』、『Dr. Feelgood』。

現在までに全米だけでアルバム総売り上げ2500万枚以上、

全世界で8000万枚以上を売り上げている。

 

 

女戦士を演じているウェンディ・バリーは、ラットの”Back for More“にも出演しています
Mötley Crüe – Looks That Kill
     

 

このミュージックビデオでモトリー・クルーを初めて知りました 一番のお気に入りの曲
Mötley Crüe – Smokin’ In The Boys Room(Brownsville Station Cover)

 

 

 

 

 

Ratt

Ratt(ラット)はアメリカのハードロックバンド。

1976年にスティーヴン・パーシー(Vo)を中心にカリフォルニア州

サンディエゴでMicky Rattが結成される。

1980年にロサンゼルスへ移り、後にオジー・オズボーンに選ばれる

ギタリストのジェイク・E・リーが参加する。翌年バンド名をRattと

して活動を続けるが、ジェイク・E・リーを含む初期のメンバーらが

ラフ・カットを結成するためグループを脱退。バンドはパーシーと

ギタリストのロビン・クロスビー(1959年8月4日-2002年6月6日)を

中心にメンバーを再編する。

リハーサル、ライヴを重ねた末、ドラマーとしてボビー・ブロッツァー

が加わり、またパーシーとクロスビーの地元サンディエゴから当時

18歳のギタリスト、ウォーレン・デ・マルティーニが参加。

最後にベーシストのフォアン・クルーシェがドッケンを脱退して

バンドに加入し、バンドのデビュー時のラインアップが揃う。

1983年、デビュー・アルバム『Ratt』をセルフリリースする。

派手なファッションと化粧、明るく開放的な音楽性はラットン・ロール

(Ratt & Roll)と呼ばれて人気を博し、80年代に巻き起こった

ハードロック、グラムメタルのムーヴメントを同じL.A.出身のバンド、

モトリー・クルーとともに牽引した。

バンドはこれまで全米で1600万枚、全世界で3000万枚以上のアルバム

セールスを記録した。

代表曲は『Round And Round』、『Lay It Down』、『Dance』、

『You’re In Love』、『Body Talk』。

 

 

声は好みではなかったけれどL.A.のバンドで一番カッコいいと思っていたラット
Ratt – You’re In Love

 

ピエロが何か怖かった記憶があります…
Ratt – Lay It Down
     

 

 

 

 

 

Twisted Sister

Twisted Sister (トゥイステッド・シスター)は、アメリカのヘヴィメタル

バンド。

1972年、ニュージャージー州ホーホークスでギタリストのジェイ・ジェイ・

フレンチを中心に結成された

ジューダス・プリーストのような伝統的なヘヴィメタルのスタイルを

維持し、たびたびヘヴィメタルバンドの代表例として扱われる。

曲に関してはほとんどが親対子の関係や教育制度をテーマにした

ものであり、ミュージック・ビデオやライヴはコメディックで独特な

ものが多いのも特長である。

コミカルな部分も受け入れられ、現在ではバンドとして多くの子供向け

番組に出演している。

1976年に、ヴォーカルと作曲担当としてDee Snider(ディー・スナイダー)

を迎えた。また、ドラマーはKevin John GraceからTony Petriに変更された。

またこれを機にバンドの指向は、アリス・クーパーやブラック・サバス、

モーターヘッドから影響を受けたへヴィメタルへと変わった。

バンドの指向は当時既に流行遅れであったが、ディーの優れた作曲能力は

バンドに大きく貢献し、まずはニューヨーク近辺での認知度を急進的に

上げた。ファンも次第に増え、1979年には 『I’ll Never Grow Up Now』、

1980年には 『Bad Boys (Of Rock & Roll)』 をセルフ・リリースした。

 

 

バンドは1979年から1982年の間、3度のラインアップの変更があった。

ドラマーのTony Petriに代わって元DictatorsのドラマーRichie Teeterが、

Teeterに代わってJoey Brightonが、そして最後にBrightonに代わって

A.J.Pero(1982 – 1986年、1998年、2001年、2003 -)が加入する。

※後日追記 AJ Peroは2015年3月20日、55歳で心臓発作により死去。

1984年5月10日には、バンドとして3作目のアルバムの『Stay Hungry』を

リリースし、これによってバンドは世界的な人気を獲得した。

ツアーも成功し、『Stay Hungry』は1985年夏だけで200万枚以上の

セールスを記録。また翌年も300万枚以上のセールスを達成した。

アルバムからは『We’re Not Gonna Take It』(US 21位) と 『I Wanna Rock』

(US 68位) のミュージックビデオもリリースされた。

しかし、『Under the Blade』と『We’re Not Gonna Take It』の

ミュージック・ビデオは「両親や教師に対しての反抗的な場面を

特集している」とも批判され、PMRC (ペアレンツ・ミュージック・

リソース・センター)の委員会によって対象作品とされた。

 

 

現在までリリースされた曲はすべて、1976年のディー・スナイダー

加入以降、彼によって作曲されたものである。

デビューアルバムは結成から10年近く経った1982年にリリース

されている。

また、ディー・スナイダーはアメリカの人気音楽番組「MTV」の看板

コーナー”Heavy Metal Mania”(1985~1986)でホストを務めた。

 

 

このミュージックビデオ、何回観ても笑っちゃいます
Twisted Sister – We’re Not Gonna Take It

 

こういうイヤな教師がいたらやっつけに来てもらいたい
Twisted Sister – I Wanna Rock

 

 

 

 

 

Winger

Winger(ウィンガー)は、アメリカのグラムメタル、

プログレッシヴ・メタルバンド。

1987年、ニューヨークでキップ・ウィンガー(Vo,B)と

ポール・テイラー(Key,G)を中心に結成された。

1980年代半ば、キップ・ウィンガーは元々はアリス・クーパーの

バック・バンドからキャリアをスタートさせ、そこで出会った

ポール・テイラーと意気投合。

その後すぐ、スタジオ・ミュージシャンとして腕利きと評判だった

レブ・ビーチが参加する。

また、ディキシー・ドレッグスからセッションのみの参加だった

ロッド・モーゲンステイン(Dr)を正式加入させる。

バンド名は当初は”Sahara”が挙がっていたが、すでに他のバンドに

使用されていたために”Winger”を代わりに用いることになった。

なお、”Sahara”の文字は彼らのデビュー・アルバムのジャケットの

右下に見ることができる。

バンドの音楽スタイルは、グラムメタルとプログレッシヴ・メタルの

要素を組み合わせたものであった。

キップ・ウィンガーは、バンドのスタイルと音楽的能力について、

「私たちのバンドは音楽仲間の間ではよく知られていて、多くの

ミュージシャンがライヴを見に来て、どのような演奏をするのか

私を観察していた。私たちはドリームシアターのヘアメタルバンド

ヴァージョンみたいでした」と語った。

 

 

1988年、アトランティック・レコードからデビューアルバム

『Winger』をリリース。

Madalaine』、『Seventeen』、『Headed For a Heartbreak』、

Hungry』のミュージックビデオが制作された。

アルバムはビルボード200の21位に達し、その後63週チャートに

留まった。1989年6月13日、RIAAよりプラチナに認定された。

1990年、バンドはアメリカン・ミュージック・アワードの”Best New

Heavy Metal Band”にノミネートされる。

そしてまもなく2枚目のアルバム『In the Heart of the Young』が

リリースされ、アメリカでプラチナ、日本でゴールドディスクを獲得。

アルバムからのシングルで彼らの最大のヒット曲である『Miles Away』。

湾岸戦争が勃発したのもちょうどこの頃だった。

戦場に赴いて行ったアメリカの兵士たちに、とくに歌詞が好まれて

聴かれていたという。この曲を作ったポール・テイラーはアルバム

リリース直後にバンドを去った。

90年代に入ると80年代からのハードロック、グラムメタルシーンは

衰退の一途を辿っていく。

バンドは3人編成となり、1992年から1993年にかけて制作されたアルバム

『Pull』はこれまでのアルバム同様のヒットには至らなかった。

ツアーの後1994年にバンドは解散し、キップ・ウィンガーはソロ活動に

入り、他のメンバーはそれぞれのプロジェクトで活動した。

 

 

キップ・ウィンガーはニューメキシコへ移住し、ニューメキシコ大学で

本格的なクラシック音楽の勉強を始める。

だが1996年11月、最初の妻であるベアトリスが交通事故で急逝するという

悲劇がウィンガーを襲った。

1997年にリリースされたソロ・アルバム『This Conversation Seems

Like a Dream』の中で最後に収録されている『Here』は、亡き妻に

捧げた曲。

ニューメキシコ州サンタフェで3枚のソロ・アルバム

『This Conversation Seems Like a Dream』、『Down Incognito』(1999)、

『Down Incognito』(1999) 、『Songs from the Ocean Floor』(2001)を

レコーディングした後、2002年にウィンガーはテネシー州ナッシュビルに移り、

4枚目のソロ・アルバムの制作を開始する。

 

 

2006年5月にバンドは再結成。キップ・ウィンガー(Vo,B)、

レブ・ビーチ(G)、ロッド・モーゲンスタイン(Ds)、ジョン・ロス(G)、

センク・エログル(G,Key)の2人を加え5人編成で、約13年ぶりの

リリースとなる4枚目のスタジオアルバム『IV』をリリース。

2008年、Cenk Erogluと共同プロデュースしたソロ・アルバム

『From the Moon to the Sun』をリリース。

2009年5枚目となるアルバム『Karma』をリリース。

2014年に6枚目となるアルバム『Better Days Comin’』をリリースした。

現在のメンバーは、キップ・ウィンガー、レブ・ビーチ、ロッド・

モーゲンスタイン、ジョン・ロスの4人編成。

 

 

キップ・ウィンガーのこのフットワークの良さは、バレエを習っていたから
だそうです
Winger – Seventeen

 

彼女の裏切りを見てしまった男性の苦悩というストーリー。
この頃は、まるで映画のような良質のミュージックビデオがたくさんありました
Winger – Miles Away

 

 

 

 

 

TNT

TNT(ティー・エヌ・ティー)はノルウェーのヘヴィメタル、

ハードロックバンド。

世界的に隆盛した80年代グラムメタルのバンドとして、また

スウェーデンのヨーロッパをはじめとするバンドとともに日本でも

北欧メタルと呼ばれていたムーヴメントの一端を担った。

2度の解散を経て現在も活動している。

 

1982年、ノルウェーの都市トロンハイムで、ヴォーカリスト兼

リズム・ギタリストのDag Ingebrigtsen、ギタリストのRonni LeTekrø

(ロニー・ル・テクロ)、ベーシストのSteinar Eikum、

ドラマーのDiesel Dahl(ディーゼル・ダール)によって結成された。

同年、デビューアルバム『TNT』をリリース。ノルウェーの歌詞を

特徴とした唯一のアルバムとなっている。

1983年、脱退したSteinar Eikumの後任としてMorty Black

(モーティ・ブラック)が加入。

1984年、ポリグラムより『TNT』の前半の曲を英語の歌詞で再録した

2ndアルバム『Knights of the New Thunder』をリリース。

アメリカ人ヴォーカリストのトニー・ハーネルをバンドに迎え、これが

彼の初参加作品となる。

アルバムに収録の『Seven Seas』はミュージックビデオがリリースされ、

MTVで頻繁にオンエアーされた。

1987年、3rdアルバム『Tell No Tales』をリリース。

前作『Knights of the New Thunder』のパワーメタルから

グラムメタルに方向転換したものとなっており、アルバムからは

シングル『10,000 Lovers (In One)』がリリースされた。

本国ノルウェーでは1位を獲得。またビルボード200で初のチャートイン

(100位)を果たす。

アルバムをリリース後、ドラマーのディーゼル・ダールが個人的な理由で

脱退。後任としてKenneth Odiin(ステージ・ドールズ)が加入。

1988年、4thアルバム『Intuition』をリリース。

『Tonight I’m Falling』、『Intuition』などキャッチーな曲を収録した

このアルバムはスカンディナヴィアと日本での人気を獲得。

前作『Tell No Tales』に続きビルボード200で115位、ノルウェーで

3位に達しバンドで最も商業的に成功を収めたアルバムの1つとなった。

これがKenneth Odiinの唯一参加した作品となった。

アルバムのサポートツアーの後、バンドはAtlantic Recordsと契約。

Kenneth Odiinが脱退。John Macaluso(Ds)が加入。

1992年、5thアルバム『Realized Fantasies』をリリース。

しかし、レーベル側がアメリカでのプロモーションに力を入れたことが

裏目に出て、結果、バンドはアメリカでも世界の他の国々でも大きな

成功を収めることができず、一時的に活動を休止する。

 

 

1996年、バンドはトニー・ハーネル、ロニー・ル・テクロ、

モーティ・ブラックの3人とセッションドラマーのFrodeLamøyを

加えた4人で再結成。

1997年、6thアルバム『Firefly』をリリース。いままでのサウンドにも

大きな変化をもたらした。1990年代前半の音楽の主流の変化を反映した

より重くモダンなスタイルはファンの間で賛否両論となった。

1999 年、7thアルバム『Transistor』をリリース。

2000年、ディーゼル・ダールがバンドに復帰。

2004年、8thアルバム『My Religion』をリリース。このアルバムは

『Realized Fantasies』より離れていたグラムメタルへの回帰を示した。

これがモーティ・ブラックの参加した最後のアルバムとなる。

2005年。長年ベーシストを務めてきたモーティ・ブラックが脱退。

同年『All the Way to the Sun』をリリース。その年の末、新しい

ベーシストとしてVictor Borgeが加入。

2006年のヨーロッパ・ツアーを最後にトニー・ハーネルが脱退。

バンドは後任としてイギリスのバンドSHYの元ヴォーカリスト、

トニー・ミルズを迎える。

2007年6月、通算10枚目となるアルバム『The New Territory』を

リリース。

2008年9月22日、11thアルバム『Atlantis』がノルウェーと日本で

それぞれリリースされた。同年12月12日にはDag Ingebrigtsen、

ロニー・ル・テクロ、ディーゼル・ダール、Steinar Eikumの

オリジナルラインアップでIngebrigtsenの50歳の誕生日を祝うため

一日限定で再結成を行った。

2010年、12thアルバム『A Farewell to Arms』をリリース。

このアルバムは、前の2つのTNTアルバムとは対照的で、1980年代の

メロディック・ロックが中心となっている。ディーゼル・ダールは

このアルバムは昔のTNTサウンドを取り戻そうとしていると述べた。

『Knights of the New Thunder』や『Tell No Tales』でキーボードや

バックヴォーカルを提供したBård Svendsenもアルバムの制作に携わった。

2012年、デビュー30周年を記念し、歴代シンガーと地元オーケストラを

迎えスペシャル・ライヴを開催。このライヴを最後にトニー・ミルズが

ソロ活動に専念するため脱退する。

2013年10月、トニー・ハーネルがバンドに復帰した。

 

※2016年7月追記

2015年1月、トニー・ハーネルが再びバンドを去ったことを発表。

2016年5月21日、Facebookを経由してトニー・ハーネルがバンドに

戻ったことが発表された。

 

 

このミュージックビデオもMTVでよく拝見しました
4オクターヴの音域の持ち主トニー・ハーネル
TNT – Seven Seas

 

北欧の夜空に広がるオーロラのように美しい声、美しい映像、美しい曲です
TNT – Tonight I’m Falling

 

 

 

 

 

Poison

Poison(ポイズン)は、アメリカのロックバンド。

初期は化粧をした派手なルックスで注目を浴びた。ポップで

キャッチーな判りやすいメロディーで世界的な成功を収め、

2500万枚のCDセールスを記録した。

 

 

1980年、ペンシルベニア州メカニクスでリッキー・ロケット(Ds)、

ブレット・マイケルズ(Vo)、ボビー・ダル(B)、マット・スミス

(G)はParisの名の下バンドを結成。同年3月、ロサンゼルスに移動、

バンド名をPoisonと変更し活動を開始する。

バンドは自らを売り込むためウェストハリウッドの有名なクラブ

回りをし演奏した。このとき、もうすぐ父親になろうとしていた

スミスは、バンドの将来について懸念を抱きペンシルベニアに

戻ってしまう。

バンドはギタリストのオーディションを経てC・C・デヴィルを獲得。

1986年にインディーズ・レーベルのエニグマレコードと契約。

同年、ブレット・マイケルズ、ボビー・ダル、リッキー・ロケット、

C・C・デヴィルのラインアップでデビューアルバム『Look What

the Cat Dragged In』をリリース。『Cry Tough』、『Talk Dirty

To Me』(ビルボード・ホット100で9位)、『I Want Action

(50位)、『I Won’t Forget You』(13位)シングルがリリース

され『Cry Tough』はアメリカではチャートインしなかったが、

イギリスのシングルチャートで97位に達した。

1988年、2ndアルバム『Open Up and Say… Ahh!』をリリース。

アルバムからシングル『Nothin’ but a Good Time』(ビルボード・

ホット100で6位)、『Fallen Angel』(12位)、『Every Rose Has 

Its Thorn』(3週連続1位、1989年1月26、RIAAよりプラチナ認定

された)、『Your Mama Don’t Dance』(10位)の4枚のシングルが

リリースされ、『Every Rose Has Its Thorn』はバンド初のナンバー1

ヒットとなった。

『Open Up and Say… Ahh!』はビルボード200で2位に達し、

バンドの最も成功したアルバムとなった(1991年10月21、RIAAより

マルチ・プラチナに認定された)。

1990年、3rdアルバム『Flesh & Blood』をリリース。

このアルバムは『Look What the Cat Dragged In』のように

過剰なメイクやヘアスタイルといった派手なイメージから、

ガンズ・アンド・ローゼズのようなワイルドなものに

とってかわり、ポイズンのグラマーなイメージの終わりを

象徴している。

アルバムは『Unskinny Bop』(1990年9月5、RIAAよりゴールド認定された)、

『Something to Believe In』の2枚のトップ10シングルと

『Ride the Wind』、『Life Goes On』、『(Flesh & Blood)

Sacrifice』の3枚のヒットシングルがリリースされた。

『Flesh & Blood』は1991年2月14日、RIAAよりトリプル・

プラチナに認定された。また1991年2月27、カナダのBPIにより

マルチ・プラチナに認定された。

その年の8月18日、イギリスでの数少ない出演の1つ、ドニントンの

モンスターズ・オブ・ロックに出演、このイベントはBBCラジオ1で

放送された。

このころから、バンドメンバー間に個人的意見の相違と麻薬問題で

緊張が高まっていた。バンドは1990年~1991年の

“Flesh & Bloodワールド・ツアー”の中のいくつかのパフォーマンスが

収録されたライヴアルバム『Swallow This Live』をリリースした。

この2枚組アルバムには、バンドの3つのスタジオ・アルバムからの

ライヴトラックと、その年の後半にC・C・デヴィルがバンドを

脱退する前に最後にレコーディングされたシングル『So Tell Me Why』を

含む4つの新しいスタジオ・トラック(1993–2000)が含まれている。

1991年、メンバーとの確執と麻薬問題によりC・C・デヴィルは解雇され、

新しいギタリスト、リッチー・コッツェンが加入した(1993年に解雇。

後任としてブルース・サラセノ(G)が加入)。

 

 

1994年バンドは新作のレコーディングに入ったが、マイケルズが

フェラーリを運転中、交通事故で負傷。(鼻、肋骨、顎、指を骨折。

歯を4本折る重傷)彼の療養の為にレコーディングは中断された。

一方、音楽も80年代の主流であったハードロック、グラムメタルから

グランジへと移り変わっており、マイケルズの復帰後、新作の制作は

暗礁に乗り上げてしまう。

結局バンドは1996年にベストアルバムを発売し、その中に数曲の

新曲を入れるという妥協策を採ることになった。

数年離れた後、マイケルズとC・C・デヴィルは関係を修正することができ、

1996年、マイケルズはサラセノの後任として、デヴィルをポイズンに迎え入れた。

現在は、ブレット・マイケルズ、C・C・デヴィル(G)、ボビー・ダル、

リッキー・ロケットのラインアップで活動中。マイケルズはソロ活動も

続けている。

 

 

ブレット・マイケルズ(1963年3月15日-)はペンシルベニア州

ピッツバーグ出身。

スティーヴン・タイラー、デイヴィッド・リー・ロス、

ビリー・アイドルの影響を受ける。

マイケルズは、子供の頃から糖尿病(6歳のころ小児糖尿病と診断)

患者であり、インシュリン注射を欠かすことができず、バンドが

大ブレイクした80年代にも、楽屋で打っている姿が頻繁に目撃され

「コカイン中毒」「かなりのヘビー・ユーザー」などという噂が

流れていた。

「ジャンキーというよりも糖尿病だという方が、ロッカーとして

イメージ・ダウンになりそうだから」と沈黙し続けたものの、

インシュリンが間に合わずライヴ中に倒れ病院へ緊急搬送された

のをきっかけにカミングアウトした。

2010年春には盲腸で手術を受け、同年4月22日に、マイケルズは

自宅で突然耐え難い頭痛に襲われ、すぐさま病院に運ばれ入院、

クモ膜下出血と診断される。ほどなく意識不明の重体に陥り、

その時彼の脳内は大量の血液で満たされており、緊急処置を受けるも

予断を許さない状態が続いた。

奇跡的に復活した後も、生まれつき空いていた心臓の穴が原因に

より心臓発作を起こし、手術を受けていた。

2011年、マイケルズはあるインタビューで「2010年は私にとって

まぎれもなくジェットコースターのような年だった」とコメント

している。

長年連れ添った恋人クリスティ·ギブソン(2012年7月に破局)との

間にレイン(Raine、2000年生)、ジョルジャ(Jorja、2005年生)

という2人の娘がいる。

長女のレインは境界型糖尿病と診断されており、そのことにかなり

心を痛めていた。その娘のためにつくった『Raine』という楽曲がある。

マイケルズは糖尿病患者の為のチャリティも行っており、アメリカの

「セレブ版・アプレンティス・シーズン3(アメリカで屈指の不動産王、

ドナルド・トランプをホストに、14人のセレブが2チームに分かれて

課題に挑戦する)」という番組に出演し優勝。

賞金25万ドル(約2200万円)は全て全米糖尿病協会に寄付した。

 

 

この曲はポイズンの中で一番のお気に入り。元気をもらえます!
歌詞は下品でチャラいけれど、それもご愛嬌
Poison – Talk Dirty To Me

 

キャッチーでゴキゲンなロックン・ロール!彼らの曲を聴くとリラックスできます
Poison – Nothin’ But a Good Time

 

 

 

 

 

Steelheart

Steelheart(スティールハート)はアメリカのハードロック、

グラムメタルバンド。

1981年、コネチカット州ノーウォークでRed Alertというロックバンドで

活動していたMiljenko Matijevic(マイク・マティアビッチ、Vo)、

James Ward(B)、Chris Risola(G)、Jack Wilkenson(Ds、すぐに

John Fowler(2008年に死亡)と交代)、Frank DiCostanzo(G)は

長年のライヴなどの活動が報われ、1980年代後半にMCA Recordsと

契約を締結。バンド名をSteelheart(スティールハート)に変更する。

1990年、デビューアルバム『Steelheart』をリリース。

アルバムはBruce Dickinson(アメリカのプロデューサー。イギリスの

ヘヴィメタルバンド、アイアン・メイデンのヴォーカルBruce Dickinson

(ブルース・ディッキンソン)とは別人)とMark Opitzとの共同制作。

『Can’t Stop Me Lovin’ You』、『I’ll Never Let You Go』、

Everybody Loves Eileen』、『Rock ‘N Roll (I Just Wanna)』、

『She’s Gone』などを収録。

シングルリリースされた『She’s Gone』はビルボードホット100で59位、

『I’ll Never Let You Go』はビルボードホット100で23位、メインストリーム・

ロックチャートで24位に達した。アルバムはビルボード200で40位に達し、

1991年、RIAAによりゴールド認定された。

1992年、2ndアルバム『Tangled in Reins』をリリース。ビルボード200で

144位に達した。

その後ライヴツアーを行うが、1992年10月、ライヴ中にヴォーカルの

マイク・マティアビッチが照明器具の落下により大怪我を負い、長期の

療養が必要となった。これによりバンドは一旦解散する。

 

 

1996年、唯一のオリジナルメンバーとなったマイク・マティアビッチは

バンドを再編成。ラインアップはギタリストのKenny Kanowski、

ベーシストのヴィンセント・メレ、ドラマーのアレックス・マカロヴィッチ。

3rdアルバム『Wait』をリリースする。元メンバーのJames Wardが

アルバムのサポートツアーに参加した。アルバムはアメリカでチャートイン

することができなかったが、トラック『We All Die Young』は、2001年に

公開されたマーク・ウォールバーグとジェニファー・アニストン主演の

アメリカの音楽映画「Rock Star」で使用された。

2008年、4thアルバム『Good 2B Alive』をセルフリリース。

また、オリジナルメンバーであるクリス・リゾーラがツアーメンバーとして

バンドに復帰している。

 

 

Mike Matijevic(マイク・マティアビッチ、1964年11月29日-)は、

クロアチア系アメリカ人のミュージシャン。

アメリカのハードロックバンドSteelheart(スティールハート)の

リード・ヴォーカリスト。

広い声域を持ち、Steelheartの多くの楽曲を手がける。

1992年のライヴ中に照明が落下しマティアビッチに直撃。頭蓋骨、

鼻、頬骨、顎、そして背骨を骨折するという重傷に遭い、

一時的に記憶喪失に陥った。壮絶なリハビリの末1996年に復帰。

2001年には映画『ロック・スター』用に特別結成された架空の

バンド、スティール・ドラゴン(Steel Dragon)に吹き替えとして

参加。ヴォーカルを提供した。

出演者にザック・ワイルド(G)、ニック・カトネーゼ(G)、

ジェフ・ピルソン(B)、ジェイソン・ボーナム(Ds、レッド・

ツェッペリンのドラマー、故ジョン・ボーナムの息子)、マイルズ・

ケネディ(Steel Dragonのフォロワー役)、ラルフ・サエンス

(Steel Dragonのオーディションを受け不合格となった男の役)と

いった豪華な顔ぶれ。

2006年にSteelheartを再結成。

今ではバンドの殆どのビジネスを手がけ、Steelheart Studio、

Steelheart TV、Steelheart Wear、そしてSteelheart Recordsを

立ち上げている。

現在は本名であるMiljenko Matijevic(ミリェンコ・マティアビッチ)を

名乗っている。

 

 

Steelheart – Everybody Loves Eileen

 

凄まじい事故を体験してカムバックするまでの、マイク・マティアビッチの
努力に敬意を表します
Steelheart – She’s Gone

 

 

 

 

 

The Cult

The Cult(ザ・カルト)はイギリスのハードロックバンド。

1981年、イングランドのヨークシャーでIan Astbury

(イアン・アストベリー)を中心にポストパンク、ゴシック・ロック

バンドSouthern Death Cultが結成される。

1983年2月にSouthern Death Cultは解散。イアンはTheatre Of Hate

のギタリストであったBilly Duffy(ビリー・ダフィー)とDeath Cult

を結成。その後バンド名をThe Cultと改め、1984年にデビューアルバム

『Dreamtime』をリリースする。

このアルバムからのシングル曲 『Spirit Walker』はpositive punk

(ポジティヴ・パンク)界屈指の名曲とされている

1983年2月、イギリスの週刊音楽雑誌NMEはゴシック・ロックの

新たなシーンとして表紙に”positive punk”という言葉を掲載した)。

 

 

1985年、スティーヴ・ブラウンのプロデュースによる2ndアルバム

『Love』をリリース。イギリスのトップ40シングル

『She Sells Sanctuary』、『Rain』、『Revolution』を含む

全10曲を収録。

『Rain』は、執筆およびレコーディングの段階で暫定的に『Sad Rain』と

いうタイトルが付けられた。歌詞はヴォーカリストでフロントマンの

イアン・アストベリーが子供のころに住んでいたカナダの、

北アメリカ先住民文化への関心と、アリゾナのホピ族のレインダンスに

影響を受けたものとなっている。この曲はリスナーに人気があり、

商業的に成功したシングル・リリースの1つであるにもかかわらず、

1989年11月24日にウェンブリー・アリーナでこの曲を演奏した後、

アストベリーは観客に「この曲が好きか?」と尋ねた。

『Rain』 はイギリスのシングルチャートで17位、『Love』は

イギリスのアルバムチャートで4位を達成。22週間にわたって

チャートインし商業的な成功を収めた。

1987年、3rdアルバム『Electric』をリリース。『Love』で

成功を収めたスティーヴ・ブラウンをプロデューサーに迎え、

製作に取り組んだが、暫定的に『Peace』と題されたアルバムの

サウンドに不満を感じ、バンドは新しいプロデューサーを

探し始めた。そしてリック・ルービンがバンドのサウンドを

作り直すべくプロデューサーとして特別に迎えられた。

『Electric』は、今までのゴシック・ロックからハードロックの

サウンドにシフトチェンジしたもので、80年代のハードロックと

ヘヴィメタルの流行を反映したものとなっている。

このアルバムは「1001 Albums You Must Hear Before You Die

(死ぬ前に聴くべき1001枚のアルバム)」に掲載された。

『Electric』は前作をしのぎ、イギリスのチャートで4位に達し

27週間チャートにとどまり、最も商業的成功をおさめたアルバムと

なった。

 

 

1989年にボブ・ロックのプロデュースによる4thアルバム

『Sonic Temple』をリリース。シングル『Sweet Soul Sister』は、

イギリスのシングルチャートで38位、アメリカのメインストリーム・

ロックチャートで14位に達した。

90年代に入ると、折からのグランジブームの影響もあり、バンド活動が

困難になってきたため1995年に一旦解散する。

1999年再結成するが2002年に解散。2006年に再々結成された。

 

現在のメンバー

・イアン・アストベリー(Vo,Percussion,1983-1995年、1999年-現在)

・ビリー・ダフィー(G,1983-1995、1999-現在)

・クリス・ワイズ (B,2000年、2006年-現在)

・ジョン・テンペスタ(Ds,2006年-現在)

 

 

Southern Death Cult時代の奇抜なメイクは影を潜めていますが、
軽やかなステップは健在です
The Cult – Rain

 

イアン・アストベリーと、ポイズンのギタリストC・C・デヴィルは同年同日生まれ。
The Cult – Fire Woman

 

 

 

 

 

Dokken

Dokken(ドッケン)は、1982年にデビューしたアメリカの

ハードロック、ヘヴィメタルバンド。

1980年代にアメリカを中心に巻き起こった80年ハードロック、

グラムメタルのムーヴメントを担うバンドの一つ

L.A.出身のバンドであるが、ノルウェー系アメリカ人である

バンドのリーダー、ドン・ドッケンの哀愁漂うヴォーカルと

ジョージ・リンチのテクニカルなプレイは当時異彩を放った。

80年代にリリースした4つのスタジオ・アルバムのうち3つが

RIAAよりプラチナ認定されている。

 

 

1976年、ヴォーカリスト兼ギタリスト、音楽プロデューサーの

ドン・ドッケン(Donald Maynard Dokken、1953年6月29日-)は、

ドラマーのBobby Blotzer(ボビー・ブロッツァー)、ベースの

Juan Croucier(フォアン・クルーシェ)を含むメンバーとAirbornと

いうバンドを結成。ロサンゼルスを拠点に活動していた。

しかし、ボビー・ブロッツァー、フォアン・クルーシェは1978年に

バンドを脱退しFireFoxxを結成する。

ドン・ドッケンはレコード契約を締結している同名のバンドがすでにいた

ためバンド名を変更する必要があった。

1979年、バンド名をDokken(ドッケン)と変更。Greg Pecka(Ds)、

Steven R. Barry(B)を迎えシングル『Hard Rock Woman』を

リリース。

ドン・ドッケンはギタリストのグレッグ・レオン、ドラマーのゲイリー・

ホランド(どちらもSuite 19のメンバーで、モトリー・クルーの

トミー・リーも在籍していた )、ベーシストのゲイリー・リンクの

ラインアップでツアーのためにドイツを訪れた。

そしてマイケル・ワグネル(元Acceptのギタリスト)という新進気鋭の

プロデューサーと親交を深める。

彼はその後、ドッケンのアルバムを手掛けることになる。

その後グレッグ・レオン、ゲイリー・ホランドが脱退しバンドは崩壊。

同年、EP『Back in the Streets』はバンドの承諾なしにドイツのレーベル

Repertoire Recordsよりリリースされた。

アルバムジャケットの写真にはゲイリー・ホランド(グレイト・ホワイト)、

グレッグ・レオン(クワイエット・ライオット)、ゲイリー・リンクが

写っているが誰もこのアルバムで演奏しておらず、1983年以降の

メジャーレーベルのリリースに関連するドッケンのメンバーのうち

ドン・ドッケンだけがこのアルバムで演奏している。

 

 

1980年、ドン・ドッケンはすでにラットで活動を開始していた

フォアン・クルーシェとともに再びバンドを再編成する。

そして将来のバンド仲間となるXciterのドラマー、ミック・ブラウン、

ギタリストのジョージ・リンチに出会う。

ドン・ドッケンは、バンドにミック・ブラウンだけを誘う予定だったが、

ミック・ブラウンはジョージ・リンチも一緒という条件を提示。

ドン・ドッケンは条件を受け入れ、2人はバンドに加入する。

ドン・ドッケン、フォアン・クルーシェ、ジョージ・リンチ(G)、

ミック・ブラウン(Ds)というラインアップでレコーディングを

開始。バンドはフランスのレーベルCarrere Recordsとの契約を

獲得する。

 

 

1981年、デビュー・アルバム『Breakin’ the Chains』をリリース。

1983年、フォアン・クルーシェがラットの活動に専念するため脱退。

後任にジェフ・ピルソンが加入。バンドはメジャーレーベルのエレクトラ・

レコードと契約。デビュー・アルバム『Breaking the Chains』が

再リリースされる。アルバムはビルボード200で136位に達した。

1984年、2ndアルバム『Tooth and Nail』をリリース。

『Just Got Lucky』(メインストリーム・ロックチャートで27位)、

『Alone Again』(ビルボードホット100で64位)、

『Into the Fire』(メインストリーム・ロックチャートで21位)の

3つのヒットシングルが収録されたアルバムは、ビルボード200で49位に達し

ゴールドに認定(1989年3月16日にRIAAによりプラチナ認定を受けた)。

1985年、3rdアルバム『Under Lock and Key』をリリース。

シングル『In My Dreams』(ビルボード・ホット100で77位、

メインストリーム・ロックチャートで24位)、『The Hunter』

(メインストリーム・ロックチャートで25位)、『It’s Not Love』を

収録。アルバムはビルボード200で32位に達し、100万枚以上のセールスを

記録。バンド初のトップ40入りを果たした。

1986年3月にはRIAAよりゴールドに認定された(1987年4月14日にプラチナに

認定)。

1987年に『Back for the Attack』をリリース。ビルボード200で13位に達し、

1988年1月14日プラチナに認定され、バンドがプラチナ・ステータスに

達した3番目のアルバムとなった。

1988年、『Back for the Attack』をリリース後、バンドは夏に

「モンスターズ・オブ・ロック」ツアーの一環としてヴァン・ヘイレン、

スコーピオンズ、メタリカ、そしてキングダム・カムと共にツアーを

行った。

1988年4月の日本ツアーの収録は、1988年11月16日にライヴアルバム

『Beast from the East』のリリースにつながり、アルバムから

Walk Away』のシングルとミュージックビデオがリリースされた。

アルバムはビルボード200で33位、 オリコンチャートで27位、

スウェーデンのチャートで47位に達し、1989年1月17日ゴールドに

認定された。

 

 

1989年、バンドはドン・ドッケンとジョージ・リンチの確執が深刻化し

解散。

ジョージ・リンチとブラウンはその後、Lynch Mob(リンチ・モブ)を結成

する。

1990年、ドン・ドッケンはソロ・アルバム『Ashes from Up』をリリース。

アルバムにはビリー・ホワイト(元ウォッチタワー)、ジョン・ノーラム

(ヨーロッパ)、ピーター・バルテス(アクセプト)、ミッキー・ディー

(モーターヘッド、キング・ダイアモンド)が参加した。

ジェフ・ピルソンは、Vinny Appice(ヴィニー・アピス)と1989年に

Flesh&Bloodを結成し、5曲のデモをレコーディングした。

1992年、McAuley Schenker Group(マッコーリー・シェンカー・グループ)の

アルバム『M.S.G.』 に参加。

その後、Dio(ディオ)のアルバム『Strange Highways』に参加。

元Flesh&Bloodのバンドメイトのヴィニー・アピスと再会した。

1990年に『Up from the Ashes』をリリースした後、1993年に、

ドン・ドッケンは次に来るソロアルバムを書いた。

しかし、ジョン・カロドナーはアルバムのために彼に署名したかったが、

ジョージ・リンチをバンドに戻して、アルバムをドン・ドッケンの

ソロアルバムではなく、ドッケンのアルバムとして販売することを

提案した。リンチとドン・ドッケンの間の確執が1989年のバンド解散の

原因であったという事実にもかかわらず、2人はそのことをひとまず

置いておくことに同意した。

1994年、ドン・ドッケン、ミック・ブラウン、ジョージ・リンチ、

ジェフ・ピルソンでバンドを再結成。コロムビア・レコードと

契約する。

 

 

1995年、再結成第1作目となるアルバム『Dysfunctional』をリリース

(日本先行発売であった『Dokken』のアメリカ盤。収録曲順が『Dokken』

と大きく異なる。日本盤未収録曲が3曲あるため、日本盤も再リリース

された)。ジョージ・リンチはアルバムのギターソロを書き直し再録した。

アルバムのサポートツアーの間、ドン・ドッケンとジョージ・リンチの間の

確執が再燃。そして、バンドは解散の危機に直面した。

1997年、アルバム『Shadowlife』をリリース。これがジョージ・リンチに

よる最後のスタジオ・アルバムとなった。同年後半、バンドはリンチを解雇。

ギタリストを必要としていたドン・ドッケンは、1990年のソロ・アルバムで

バンドに貢献してくれたジョン・ノーラムにヨーロッパツアーへの参加を

要請した。ヨーロッパツアーの後、ジョン・ノーラムは以前より公約していた

ソロ・アルバムの制作のため続けることができず、バンドは元ウィンガーの

ギタリスト、レブ・ビーチを迎える(1998–2001)。

1999年、『Erase the slate』という、バンドの現在の状況にぴったりの

タイトルがつけられたアルバムをリリース。このアルバムを最後にジェフ・

ピルソンが脱退。後任としてBarry Sparks(B)が加入する。

2002年、8枚目となるアルバム『Long Way Home』をリリース。

しかし、助っ人参加していたジョン・ノーラムは、ヨーロッパの

2002年前半のツアーの間、手にけがをしてしまい参加できなくなった。

後任として元Dark Lordのギタリスト、Alex De Rossoを迎える。

しかしツアーの後、彼もまたビザの資格喪失でイタリアに戻るため脱退。

バンドは後任のギタリスト探しに奔走。以前、Warlockやドロ・ペッシュ

のソロ・アルバム『Force Majeure』に参加していたギタリストの

ジョン・レヴィンを迎える。

2004年、『Hell to Pay』をリリース。

2008年、Frontiers Recordsよりアルバム『Lightning Strikes Again』を

リリース。ビルボード200で133位となり批評家の称賛を受けるとともに、

アメリカでバンド再結成後13年ぶりの商業的な成功を収めた。これが

ベーシスト、Barry Sparksの参加した最後のアルバムとなった。

2012年、『Broken Bones』リリース。ドラマーのミック・ブラウンが

スケジュールの都合が合わず、セッションドラマーのジミー・デグラッソ

(Y&T、メガデス、ラット)が参加した。これがミック・ブラウンが

参加していない唯一のアルバムとなる。また、ショーン・マクナブが

ベーシストとして参加した唯一のアルバムとなった。

 

 

このミュージックビデオのパロディがあります(2022年追記)。→The Voidz- Qyurryus

Dokken – In My Dreams

 

現在のバンドのギタリスト、ジョン・レヴィンは弁護士さんだそうです。

Dokken – Alone Again

 

 

 

 

 

華やかなりし80年代、リスナーは彼らの音楽に夢中になりました。

日本もバブル期の絶頂期にあり、私もこの時期彼らの音楽に

嵌まり込んでいました。

 

 

そして90年代。世界的な不況の波はアメリカにも押し寄せます。

リスナーは80年代のハードロックやグラムメタルの、どこか

Easyで非現実的な歌詞からはもう何も伝わってこない、

これからはそんな夢物語ばかりを語ってはいられないという

危機感もあってか、よりリアルで暗い歌詞やマイナーな音質の

グランジにあっという間に引き寄せられていきました。

そして80年代に活動していたハードロック、グラムメタルバンドや

アーティストたちは今ここでやめるべきか、または新しい主流に乗って

生き残るべきか苦渋の選択を迫られ、彼らにとってまさに暗黒の時代と

なっていきます。

 

 

今のミュージック・シーンで活動するバンド、アーティストを支持

する人たちの中に、80年代に活動した彼らの音楽やきらびやかな

ルックスに嫌悪感や違和感を持つ人がいるかもしれません。

ですが、極端な話彼らの存在があったからこそ反動でグランジが

支持されたのかもしれないし、そこからオルタナティヴロック、

オルタナティヴメタルを支持する人が出てきたかもしれない。

次の主流にくる音楽を選んでいくのは常にリスナーの私たちです。

80年代、音楽の主流となりミュージック・シーンを牽引してきた

彼らはまさにオリジナルでした。そんな彼らを選び、その音楽に

私たちは癒されました。

 

 

音楽のカテゴリーは多様化していきますがそこには目新しさはなく、

常に音楽は時代で引き継がれていきます。またあの音楽が元気に

帰って来るかもしれません。

懐かしい80年代のあの頃、キラキラ輝いていた時代にいた彼らは、

今また再評価されるべきではないかと思います。

この時代のメタルミュージック・シーンの道しるべとなった

彼らに拍手喝采!!

VIVA!! 80’S Hard rock / Heavy metal!