懐かしの70’S~Hard rock / Glam rock – Sweet

 

 

今回は、イギリスで70年代に活躍したバンドの中で、

私がもっとも好きなバンド、Sweet(スウィート)を

ご紹介します。

 

 

Sweet

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Sweet(スウィート)は、イギリスのロックバンド。

1970年初頭から70年代後半にかけて最も世界的に活躍し、

その名を広めた。Slade、T. Rexといったバンドとともにイギリスの

グラムロックバンドの代表的存在とされている。

 

 

 

1968年1月、Wainwright’s Gentlemenのリード・シンガー

だったBrian Connolly(ブライアン・コノリー、1945年10月5日-

1997年2月9日)とドラマーのMick Tucker(ミック・タッカー、

1947年6月17日-2002年2月14日)はバンドを脱退後

新しいバンドをつくるため、元Wainwright’s Gentlemenの

ギタリストFrank Torpey(フランク・トーピィ)に声をかけ、

ベーシストは地元のローカルバンド、The ArmyにいたSteve Priest

(スティーヴ・プリースト、1948年2月23日生まれ※追記あり)を

誘ってSweetshopを結成する。

バンドは1968年3月、ヘメル・ヘムステッドのThe Pavilionで

デビュー、彼らはすぐフォンタナ・レーベルとの契約を獲得する。

1968年7月、バンド名をThe Sweetと変更しシングル

『Slow Motion』でデビューするが商業的に成功せず、1969年、

ギタリストのフランク・トーピィが脱退。後任としてMick Stewartが

加入、バンドは新しいレーベル、パーロフォンに移籍する。

そこで3枚のシングル『Lollipop Man』(1969年9月)、

『All You’ll Ever Get from Me』(1970年1月)、

『Get on the Line』(1970年6月)がリリースされるが,

これも商業的な成功には至らなかった。

 

 

1970年にMick Stewartが脱退。バンドはギタリストのオーディションを

行い、当時20歳であったウェールズ出身のThe Elastic Bandのギタリスト

Andy Scott(アンディ・スコット 1949年6月30日-)が加入する。

バンドは1971年RCAに移籍。マイク・チャップマンとニッキー・

チンのチームがソングライティングとマネージメントを請け負う。

同年、デビュー・アルバム『Funny How Sweet Co-Co Can Be』

をリリースする。ヒットメーカーである二人が手がけたアルバム

からのシングル『Funny Funny』がイギリスのチャートで13位に

達し、さらに次にリリースしたシングル『Co-Co』がイギリスで2位、

アメリカでも99位にランクインした。

1972年にリリースの『Poppa Joe』はイギリスのシングル・チャート

で11位に達した。その後もチンとチャップマンが共作した

『Little Willy』と、『Wig-Wam Bam』はイギリスで4位と、

立て続けにヒットを飛ばした。このようなbubblegumの楽曲に

より、彼らは10代の若者たちによる大規模なファンを獲得して

いった。

しかし、この頃からの音楽の主流がグラム・ロックになりつつ

あったこともあり、プロモーター達は彼らをグラム・ロッカーとして

売り出そうとした。

1973年にリリース『Block Buster!』はイギリスで1位、

『Hell Raiser』と『The Ballroom Blitz』は2位と、リリース

するシングルの多くがヒットし、スウィートはイギリスのポップ・

ロック・シーンにおいて地歩を築いていった。

しかし、マネージメントであるチンとチャップマンの楽曲

『Funny Funny』、『Poppa Joe』といったバブルガムポップの

イメージ戦略に不満を感じるようになっていた彼らは、A面の

曲と対比するため、シングルのB面に自分たち本来のスタイルで

あるハードロック・ナンバーをカップリングさせた。

この間、スウィートのライヴは『Funny Funny』や『Poppa Joe』

といったバブルガムのヒット曲を避け、アルバム収録曲、

B面の曲、ロックン・ロールやさまざまなメドレーなどで構成

されたものとなっている。

1973年の終わりには、バンドの名前も「The Sweet」から

「Sweet」に変わり、1974年以降からの全てのアルバムが

スウィートでリリースされている。

 

 

彼らはバンドの大ヒット曲を書き、グラムロックのイメージを育んだ

チンとチャップマンのマネージメントにうんざりしていた。

プロデューサーのフィル・ウェインマンは、エンジニアの

ピーター・コールマンの支援を受けて『Sweet Fanny Adams』を

レコーディングした。

アルバムのセッション中に、ブライアン・コノリーはStaines High

Streetでの喧嘩で負傷した。彼は喉に重傷を負い、歌う能力は非常に

制限された。プリーストとスコットはトラック『No You Don’t』、

『Into the Night』、『Restless』でリードヴォーカルを担当し、

コノリーはハーレイ・ストリート・スペシャリスト病院で治療を受けて、

なんとかアルバムを完成させた。

バンドは事件を公表せず、その後のキャンセルされたショーは

コノリーがのどの感染症にかかったためとマスコミに語った。

この事件により、コノリーの歌唱力は恒久的に損なわれ、声域が縮小

したと伝えられている。

1974年4月、バンドは2ndアルバム『Sweet Fanny Adams』をリリース。

チャップマンとチンが多忙によりあまり関われなかったこともあり、

No You Don’t』、『Peppermint Twist』(Joey Dee & The Starliters

Cover)、『A.C.D.C.』、以外の『Set Me Free』、『Into the Night

(アンディ・スコット)、『Heartbreak Today』、『Rebel Rouser』、

Sweet F.A.』、『Restless』と、ほとんどの曲を自らの手で

作り上げており、このころから次第にチャップマンとチンとの間に

距離を置くようになる。

『Sweet Fanny Adams』はイギリスのアルバムチャートで27位、

西ドイツのアルバムチャートで2位に達した。アルバムから

『Teenage Rampage』がシングルリリースされ、イギリスで2位に

達した。

 

 

1974年11月、3rdアルバム『Desolation Boulevard』をリリース。

マイク・チャップマンによってプロデュースされたアルバムは

生のライヴサウンドを特徴とし、わずか6日間で録音された。

エルマー・バーンスタインとシルヴィア・ファインが1955年に

書いた、フランク・シナトラ主演の映画『(Themes from)

The Man with the Golden Arm』と同名の曲はドラマーの

ミック・タッカーが8分半のソロを演奏している(この曲は

アメリカのリリースには含まれていない)。これは何年もの間、

バンドのライヴパフォーマンスの定番であった。

アルバムの最初のシングル『The Six Teens』はイギリスで

トップ10ヒット(9位)、デンマークで連続No.1の驚異的な

ヒットとなった。

バンドは、コノリーの喉の怪我からほぼ半年後にライヴショーの

演奏を再開した。『Desolation Boulevard』のアメリカ版は

イギリス版とは異なり『Ballroom Blitz』と『Fox on the Run』の

シングル(どちらもアメリカで5位に達した)に加えて

『Sweet Fanny Adams』のいくつかの曲が含まれていた。

アルバムのSide 1.にはチャップマン&チンが書いた曲がすべて

含まれていたが、Side 2.にはスウィートが書いてプロデュース

した曲が含まれていた。

1975年、バンドはスタジオに戻り、トラック『Fox on the Run』の

よりポップ志向のバージョンを再アレンジして録音した。

スウィートの最初の自作プロデュース・シングルが同年3月、

全世界に向けてリリースされ、オーストラリア、統一前の西ドイツ、

デンマーク、南アフリカで1位、イギリス、アイルランドで2位、

アメリカで5位の大ヒットを記録した。オーストラリアでは、

チャートのトップになっただけでなく、その年の最も売れた

シングルとなった。スウィートのシングルとしては

『Little Willy』以来のミリオンセラーとなった。

この大ヒットにより、正式にチンとチャップマンの仕事上の

関係を終了し、バンドは今やコンポーザーとプロデューサーと

して完全に自立したことを強調した。

 

 

1975年7月、2ndシングル『Action』をリリース。イギリスで

15位を記録した。もはや、自身の作詞作曲と制作能力に自信を

持っている彼らは、1975年の後半をドイツのミュンヘンにある

ミュージックランドスタジオで過ごし、ドイツのサウンドエンジニア

Reinhold Mack(ラインホルド・マック)と共に『Give Us a Wink』を

レコーディングする。

その年の末に、アンディ・スコットは初のソロ・シングル

Where D’Ya Go / Lady Starlight』をリリース。ミック・タッカーは

両方のトラックでドラムを演奏した。

1976年1月にリリースされたシングル『The Lies In Your Eyes』は、

ドイツ、デンマーク、フィンランド、スウェーデン、オランダ、

オーストラリアでトップ10入りしたが、イギリスのチャートでは

35位に留まった。同年3月、スウィートが完全にプロデュースし、

全曲を手がけた4thアルバム『Give Us a Wink』をリリース。

この時までに、スウィートはアメリカでの人気の高まりを土台に、

50回以上のヘッドライナーをつとめるコンサートのスケジュールを

立てる。『Give Us a Wink』のリリースが差し迫っていたにも

かかわらず、バンドのセットは本質的に『Desolation Boulevard』の

アメリカバージョンと、新しくアメリカでヒットシングル『Action』を

プロモーションした。

3月24日にカリフォルニア州のSanta Monica Civic Auditoriumに

出演した際、スウィートはリッチー・ブラックモアと共に

『All Right Now』を演奏し、フリーのギタリスト、ポール・コゾフの

死を追悼した。

アメリカツアーは経済的な成功を望めず、多くの会場でオーディエンスが

少なく、最後の半ダースほどの日程がキャンセルされた。ツアーの

終了後、バンドはスカンジナビアとドイツに行った。バンドはまた、

ロンドン南部のバタシーにあるRamport Studiosで1週間を過ごし、

新しいアルバムの素材のデモを行った後、そのプロジェクトを断念し、

日本で8日間演奏した。日本のショーの終わりまでに、コノリーの非常に

かすれた歌声は絶え間ないツアーの要請と、1974年に起こした暴力沙汰が、

彼に永続的な後遺症を残したことは明白であった。

 

 

1976年10月から1977年1月にかけて、スウィートは次のアルバムの

ためKingsway RecordersとAudio International London studiosで

新しい素材を書きレコーディングした。アルバムからの先行シングル

『Lost Angels』は、ドイツ、オーストリア、スウェーデンでのみ

ヒットした。

1977年、セルフプロデュースの5thアルバム『Off the Record』を

リリース。アルバムからの2ndシングル『Fever of Love』は、

バンドがよりユーロポップのハードロックの方向に向かうことを

表しており、ドイツ、オーストリア、スウェーデンで再びチャート

インし、南アフリカでは10位に達した。

このアルバムで、スウィートは『Give Us a Wink』のエンジニアである

ルイス・オースティンと再び仕事をした(1980年のデフ・レパードの

デビュー・アルバム『On Through the Night』のエンジニア)。

バンドは新進気鋭のアメリカのロックバンド、エアロスミスとの

アメリカ・ツアーをキャンセルし、アルバムをサポートするための

ライヴを行うことはなく、実際、1977年を通して一度もコンサートを

行っていない。

スウィートは1977年にRCAとの契約を終了、ポリドールと新しい契約を

結ぶが、その年の後半まで配給がなかった。Handle Artists Labelの

スウィートのマネージャーであるDavid Walkerは、約750,000ポンドの

価値があると言われている移転を交渉した。アメリカ、カナダ、

日本ではキャピトルが1974年からスウィートのアルバムを発行しており、

1980年まで発行を続けた。

 

 

1978年、ポリドールでの最初のアルバム『Level Headed』をリリース。

セルフプロデュース3作目となるこのアルバムでは、バンドが

ロックとクラシック・サウンドを組み合わせることで実験的な試みを

行っていることが確認できる。

フランスのパリ近郊のChâteau d’Hérouville、イングランドの

フォレスト・オブ・ディーンのClearwell Castleでの30日間の作曲

セッションの後、大部分が録音されたこのアルバムは、新しい音楽の

方向性を表しており、よりメロディックなポップ・スタイルのために

ハードロックを大幅に排除し、バラードが散りばめられ、30人編成の

オーケストラが伴奏した。バラード『Lettres D’Amour』は、Stevie Lange

(1979年、ロックバンドNightのリードシンガーとして登場する)と

コノリーとのデュエットを特徴としている。

アンディ・スコットとトレヴァー・グリフィンによって書かれた

シングル『Love Is Like Oxygen』はビルボードホット100で8位、

イギリスで9位のヒットとなる。また、アイヴァー・ノヴェロ賞の

3つの部門にノミネートされ、その年のASCAP賞も受賞した。

『Love Is Like Oxygen』は1978年3月1日、BPIよりシルバーに

認定された。

スティーヴ・プリーストをリード・ヴォーカリストとして

フィーチャーした2ndシングル『California Nights』は、ドイツの

チャートで23位に達した。

 

 

1978年3月から5月にかけて、スウィートはボブ・シーガーと

シルバー・ブレット・バンドのサポートアクトとしてアメリカの

ツアーを行う。このツアーには5月3日にアラバマ州バーミンガムで

行われた悲惨な日程が含まれており、その間にキャピトル・レコードの

重役を訪ねた聴衆は、ブライアン・コノリーがセットの早い段階で

ステージで倒れ、バンドの他のメンバーを取り残して酔っぱらった

支離滅裂なパフォーマンスを披露するのを見た。

バンドは彼なしで、フォガットやアリス・クーパーなどのバンドを

サポートするために、5月下旬にアメリカツアーの第2戦を再開する

その前に一時的にイギリスに戻った。1978年7月初旬にアメリカツアーを

締めくくると、アルコール依存症とバンドから距離を置くようになった

コノリーの姿勢は、バンドに着実に大きな問題を投げかけた。

10月下旬、次のアルバムの作曲のためにクリアウェル・キャッスルで

さらに時間を過ごしたスウィートは、ロンドンのシェパーズ・ブッシュに

あるタウン・ハウス・スタジオに到着し、アルバム『Cut Above the Rest』を

完成させ、レコーディングした。コノリーの健康とバンドでの地位の低下に

起因するさまざまなメンバー間の緊張のため、創設メンバーで彼の長年の

友人であるミック・タッカーがコノリーのヴォーカルをプロデュースする

任務を負った。タッカーは、スコットよりも優れたパフォーマンスを

コノリーから引き出せると感じたからである。コノリーをフィーチャーした

多くのトラックがレコーディングされたが、これらの努力は不十分であると

見なされ、コノリーは1978年11月2日にバンドを脱退した。

1979年2月23日、ブライアン・コノリーがスウィートを離れることが、

マネージャーのデヴィッド・ウォーカーにより正式に発表された。

公には、コノリーはカントリー・ロックのレコーディングに興味を持って

ソロのキャリアを追求していると伝えられた。

 

 

スウィートは残った3人で活動を続け、プリーストがリードヴォーカルの

大部分を担ったが、スコットとタッカーもその役割で活躍した。

3人体制での最初のシングルは『Call Me』であった。ゲストキーボード

奏者のGary Moberley(ゲイリー・モーバリー)は、ステージでバンドを

サポートし続けた。

1979年、7thアルバム『Cut Above the Rest』をリリース。

ギタリストのRay McRiner(レイ・マクリナー)は1979年に彼らのツアー・

ラインアップに加わり、1979年の春と夏にアメリカ東部のジャーニーと

テキサスのチープ・トリックとの小さなツアーで『Cut Above the Rest』を

サポートした。

マクリナーはまた、カナダでレコーディングされた次のスウィートの

8thアルバム『Waters Edge』(1980年8月)に『Too Much Talking』と、

シングル『Give The Lady Some Respect』を提供した。

アメリカで『Waters Edge』は『Sweet VI』というタイトルがつけられ、

シングル『Sixties Man』、『Give The Lady Some Respect』を

フィーチャーした。

1979年12月26日、妻のポーリンが自宅の風呂で溺死するという悲劇が

ミック タッカーを襲った。

アルバム『Identity Crisis』は、1980年から81年にかけてレコーディング

され、西ドイツとメキシコでのみリリースされた。スウィートは短い

イギリスツアーを行い、1981年3月20日にグラスゴー大学で最後の

ライヴを行った。スティーヴ・プリーストはその後、1979年後半から

住んでいたアメリカに戻った。

ポリドールが1982年10月に『Identity Crisis』をリリースしたとき、

オリジナルのスウィートは1年間の間に解散していた。

1985年、スウィートの代表曲をメドレーにしたダンス・シングル

『It’s It’s… The Sweet Mix』がイギリスで45位に達した。

このシングルの人気に便乗しようと、バンドはツアーのために

再結成されたが、予想に反し期待外れに終わる。バンドはすぐに

解散した。

 

 

1984年、ブライアン・コノリーは他の3人のオリジナルメンバーを

含まない新メンバーでThe New Sweetの名の下バンドを結成。

バンドはイギリス、ヨーロッパツアーを敢行し、ツアーは統一前の

西ドイツで最も成功を収めた。

しかし、バンド名の使用権をめぐりブライアン・コノリーと

アンディ・スコットが対立。プロモーターはバンドに自分の

名前をつけて区別するよう言い渡し両者はそれに合意した。

結果、1991年結成されたアンディ・スコットのスウィートは

Andy Scott’s Sweetとなり、コノリーのThe New Sweetは

1993年、Brian Connolly’s Sweetと変更する

Brian Connolly’s Sweetはコノリーの健康問題により

1996年12月5日のブリストルヒッポドロームのコンサートが

最後となり、1997年、コノリーの死をもってバンドは解散となる。

 

 

1989年、スコットとタッカーはスウィートを再結成し、ロンドンの

マーキークラブでライヴアルバムをレコーディングし、ツアーに出る

予定だったが、タッカーが体調を崩しバンドを離脱。

唯一のオリジナル・メンバーであるスコットの「スウィート」は

Andy Scott’s Sweetとして活動を継続、1992年にアルバム『A』を

リリースした。

1995年、『A』の再録音ヴァージョン『The Answer』をリリース。

今までどのアルバムにもなかった2曲『X-Ray Spec’s』 (Ole Evenrude)、

I Don’t Want to Say Goodnight』(Clif Magness, Glen Ballard,

Jay Graydon)とボーナストラック『Do As I Say』(未発表ヴァージョン)、

『Stand Up』 (未発表ハードロック・ヴァージョン)を追加し、

曲順も変わっている。

2002年、アルバム『Sweetlife』をリリース。以降、バンド名を

アンディ・スコットを取り、単にスウィートとして活動する。

その後何年にもわたり、スコットのスウィートは、さまざまな

リードシンガーとラインアップでショーを行い、2011年にシングル

Join Together』(ザ・フーのカヴァー)をリリースした。

翌年、カヴァーアルバム『New York Connection』をリリース。

これは、過去のヒット曲を集め、独自のアレンジが加えられたものと

なっている。

バンドは過去のヒット曲だけではなく、新しいマテリアルも発表し、

頻繁にツアーをしながら活動を続けている。

2008年にはスティーヴ・プリーストもロサンゼルスを拠点として

The Sweet名義での活動を開始した。

 

 

デビュー時は、プロモーターからのイメージ戦略にさんざん利用

されてきた彼らだったが、彼ら自身がつくりあげたハードロックの

楽曲の数々はコノリーのヴォーカルによって生かされ、本来の

彼らの持ち味であるハードロックのスタイルとサウンドはバンドの

イメージを決定づけるものとなり、ダブル・ベース・ドラムや

ハードなギター・リフで印象付けたり、重厚なハーモニーで独自の

スタイルを築いた。

独自の音楽を追及し、進化し続けた彼らのスタイルは、のちの

80年代ハードロック、へヴィメタルバンドに多大な影響を与えた。

 

 

バンドは有名ミュージシャンとの交流も多く、ブライアン・コノリーと

ミック・タッカーはスウィート結成以前、Wainwright’s Gentlemenと

いうバンドでイアン・ギランと活動していたこともあり、ディープ・

パープルのメンバーとの親交が深い。とくにリッチー・ブラックモアとは

仲がよく、1976年、スウィートのライブに飛び入り参加、『All Right Now』

(フリーのカヴァー)を演奏した。

1979年には、コノリーが抜けた際の後任として、Rainbowを脱退した

ばかりのロニー・ジェイムス・ディオからスウィートに加入したいとの

オファーがあったというが、結局この話は流れ、その後ロニーは

Black Sabbathに加入することとなる。

 

 

彼らの曲は数多くのさまざまな国やジャンルのバンドからカヴァー

されている(デフ・レパードネルソンは『Action』、サクソン

ヒーゼンは『Set me Free』、レミー・キルミスターとダムド

クロークスは『Ballroom Blitz』、ガールスク-ル

『Fox On The Run』など、多くのバンド、アーティストが彼らの

曲をカヴァーした)。

好きなバンドにスウィートを挙げているアーティストは多い。

オジー・オズボーンやアンディ・デリス(Helloween)、

アクセル・ローズ(Guns N’ Roses)など。

 

 

スウィートに影響を受けたバンドも世界中に数多く存在し、

ドラマーのミック・タッカーのパフォーマンスは多くの

ミュージシャンに支持され、そのエネルギッシュなプレイは

後続のへヴィメタル、グラムメタルバンドのドラマーに大きな

影響を与えた(『The Man With The Golden Arm

(Elmer Bernstein, Sylvia Fine Cover))。

Motley Crueのドラマー、Tommy Lee(トミー・リー)は、

そのスティック回しのパフォーマンスなどから、明らかに彼の

Followerであることがうかがえる。

また、ノルウェーの4人編成のグラムメタルバンドWig Wam

(2001年‐2014年)は、彼らが音楽的に影響を受けた、最も

崇拝するバンドとしてスウィートを挙げている。

 

 

Need A Lot Of Lovin

 

Own Up take a look at yourself

 

Someone Else Will

 

Fox On The Run

 

Action

 

Love Is Like Oxygen

 

 

 

 

 

わたしは子どものころ、英語もまったくわからないのにラジオの

FEN(現在はAFN に変更)でかかる音楽が好きでよく聴いて

いました。そこで頻繁にかかっていたスウィートの曲がとても

好きで、何とかバンド名が知りたくて、やっとスウィートだと

わかった時はすごくうれしかったことを覚えています。

プロモーターの戦略により、デビュー当初はアイドルのような

扱われ方をしていたという初期のバブルガム・ポップにもいい

曲はありますが、彼ら自身が本来やりたかった音楽をやれる

ようになった頃のハードロックナンバーが個人的には好きです。

 

 

70年代当時の日本では、アメリカやイギリスのポップ、ロックバンド

で大変人気があったAerosmith、KISS、Bay City Rollers(ベイ・シティ・

ローラーズ)やQueen(クィーン)といったバンドがTVや雑誌でも

多く取り上げられ、特にスウィートとデビューがほぼ同時期だった

イギリスのベイ・シティ・ローラーズやクィーンは日本で圧倒的な

人気がありました。

ですが、スウィートは日本での認知度が低く(海外のバンドや

アーティストを紹介する音楽情報番組ですら見た記憶がなかった)、

日本で表舞台に出るようなことは決してありませんでした。

 

 

Youtubeなどで当時の彼らのTVでのライヴ映像を見ていると、

本人たちは不本意ながらもやらされている感は否めません。

当時のTVショウはほとんどが口パク、あて振り的なつくりに

なっていて(ブライアン・コノリーは歌が流れているのにマイクを

離している、アンディ・スコットは途中ギターを弾かずに機材に

こすりつけているだけの場面がある、ミック・タッカーのダブル・

ベース・ドラムがワンバスドラムになっているなど)、なんとも

お粗末な限りです。

 

 

しかし、ブライアン・コノリーのハードロック魂あふれるヴォーカルに、

アンディ・スコットのハードに刻むギター・リフ、ベースのスティーヴ・

プリーストの結構上手いヴォーカル、ドラムのミック・タッカーの

ダブル・ベース・ドラムの迫力あるプレイや華麗なスティック回しの

パフォーマンスはどれをとっても聴きごたえあり、見応えありです。

それに加えて、このバンドの評価するべきところは、そのソング

ライティングの高さにあると思います。プロモータたちの戦略に

よりつくられたイメージから脱却し、自分たち本来のカラーである

ハードロックのスタイルを確立し多くの名曲を生み出しました。

このメンバーは誰が代わってもいけない、一人として欠けては

いけないと思っていました。

 

 

ですが、残念なことに、ブライアン・コノリー(慢性アルコール中毒に

起因する腎不全、肝不全と、度重なる心臓発作で1997年2月9日に

51歳で死去)、ミック・タッカー(白血病で長年闘病していたが

2002年2月14日54歳で死去)の逝去によりもう二度とオリジナル・

メンバーでのスウィートを見ることができなくなってしまいます。

ですが、彼らの音楽はのちにLAメタルの一大ムーヴメントを

巻き起こした80年代のバンドやアーティストたちに影響を与えたと

言われていて、彼らのロックの精神は今後も後続のバンドや

ミュージシャンが受け継いでいくことと思います。

 

 

2022年追記

2020年6月4日、ベーシストのスティーヴ・プリーストが72歳で亡くなった。

バンドのオリジナルメンバーでギタリストのアンディ・スコットは、

「プリーストはこれまで一緒に演奏した中で最高のベーシスト」と述べ、

次のように続けた。

「1970年の夏、私たちが音楽の旅に出発したその瞬間から世界が開かれ、

ジェットコースターに乗ることが始まった」と言い「私は今、心が張り裂け

そうです」と付け加えた。

「彼の妻モーリーンとは連絡を取り合っており、彼の健康状態は悪化して

いましたが、まさかこの瞬間が来るとは想像していませんでした。決して。

言葉では言い表せない。彼のご家族に心よりお悔やみを申し上げます」と

追悼の意を表した。

 

バンドがトップ・オブ・ザ・ポップスのレギュラーになると、プリーストは

華やかな衣装と厚化粧の両性具有のグラム・ロックの縮図のような

キャラクターとして知られるようになった。

彼は2018年にフェニックス・ニュー・タイムズに「メイクアップのこと、

何がきっかけか思い出せない」。「マーク・ボランかな?「トップ・オブ・

ザ・ポップス」はある意味でばかげたショーだったけど、他のみんなをしのぐ

必要があった」。

「トップ・オブ・ザ・ポップス」でホットパンツを履いたのは私が初めてです。

1年後、デヴィッド・ボウイがそれをやると、誰もが「おおーっ、デヴィッド・ボウイが

トップ・オブ・ザ・ポップスでホットパンツを着ている」と言って、皆私が一年前に

やったという事実を完全に忘れていた」と語った。

 

彼は晩年、1981年に結婚した妻のモーリーン・オコナー、娘のダニエルと

マーガレットとともにカリフォルニア州ラ・カナダ・フリントリッジに住んでいた。

死因は明らかにされていない。

スウィートの他の2人のメンバーはすでに他界しており、アンディ・スコットは

唯一のクラシック・ラインアップのメンバーとなった。