ジリジリと日差しが眩しく照りつける、
今年もまた、大好きな夏がやってきました。
今回は、日本でAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック、
かつてはオーディオ・オリエンテッド・ロックとも呼ばれた)
とされている※ソフトロック、ブルー・アイド・ソウルなどの
活動するオーストラリア、アメリカのバンド、
アーティストをご紹介します。
※ソフトロックは、ポップロックの派生として1970年代初頭、
カリフォルニア南部とイギリスで生まれた。
シンガー・ソングライターが手掛け、メロディックなポップロックのスタイル、
芳醇で滑らかな良質の作品が中心となり70年代を通じてアメリカのラジオで
流行していた。80年代にはアダルト・コンテンポラリー・ミュージックに
統合された。
アメリカにおいてのAOR(Album-oriented rock)はこちら。
Little River Band
Little River Band(リトル・リバー・バンド、LRB)は、
オーストラリア、メルボルンで結成されたロックバンド。
1975年、オーストラリアのバンド、トワイライト、
アクシアム、エスペラントのリード・ヴォーカリストであった
グレン・ショーロックと、ミシシッピというバンドで活動していた
グレアム・ゴーブル(G、Vo)、ビーブ・バートルズ(G、Vo)、
デレク・ぺリッチ(Ds)を中心に、リック・フォルモサ(G)、
ロジャー・マクラクラン(B)というラインアップで結成。
バンドは演奏のためジーロングへ向かう道中、ビクトリア州
リトル・リバーにさしかかる郡区の道路標識を通過した。
その名にちなんで、バンド名をリトル・リバー・バンドとした。
オーストラリアで著名な2つのバンドが集結してつくられた
スーパー・グループとしてとらえられていた彼らは、
すぐさま本国オーストラリアでの成功をおさめた。
1975年、セルフタイトルのデビュー・アルバム『Little River Band』
をリリース。アルバムからのシングル『It’s a Long Way There』は、
オーストラリアのチャートで35位、ビルボード・ホット100で28位
に達した。
1976年、2ndアルバム『After Hours』をリリース。
リード・ヴォーカルのグレン・ショーロックは、バンドの中で
もっとも好きなアルバムとして『After Hours』のオーストラリアの
バージョンを挙げている。
だが、このオーストラリアのバージョンは、数十年後になるまで
世界に向けてのリリースはされなかった。
(『After Hours』のオーストラリアのバージョンは、1997年に
アメリカのレーベルOne Way Recordsからボーナストラックを
含むインターナショナル・バージョンとして再リリースされた)。
バンドは1977年、3rdアルバム『Diamantina Cocktail』を
リリースしているが、この『Diamantina Cocktail』のアメリカの
バージョンは、実は、アルバムの内容が商業的にも充分なものでは
ないとみなしたアメリカのキャピトルレコードが『After Hours』の
オーストラリアのバージョンを部分的に編集したものであった
(『After Hours』のオーストラリアのバージョンから5トラック、
『Diamantina Cocktail』のオーストラリアのバージョンから4トラック
を選択し、アメリカのバージョン『Diamantina Cocktail』として
リリースされた)。
アルバムからは2枚のシングル『Help Is On Its Way』
(オーストラリアのチャートで1位、ビルボード・ホット100で
14位)、『Happy Anniversary』(ビルボード・ホット100で
16位)がリリースされヒットを放った。
アルバム『Diamantina Cocktail』はビルボード200で49位に達し、
RIAAによりゴールド認定された。
1978年アルバム『Sleeper Catcher』をリリース。
アルバムからは『Reminiscing』(オーストラリアのチャートで
35位、ビルボード・ホット100で3位、アダルト・コンテンポラリー・
チャートで10位)と『Lady』(ビルボード・ホット100で10位、
アダルト・コンテンポラリー・チャートで7位)と2枚のトップ10
シングルを放ち、アルバムは1979年、RIAAによってプラチナ
認定され、バンドはアメリカでの成功を獲得した。
1979年リリースのアルバム『First Under the Wire』は、2枚の
トップ10シングル『Lonesome Loser』(オーストラリアの
チャートで19位、ビルボード・ホット100で6位、アダルト・
コンテンポラリー・チャートで15位)と、『Cool Change』
(ビルボード・ホット100で10位、アダルト・コンテンポラリー・
チャートで8位)を放ち、アルバムはオーストラリアのアルバム・
チャートで2位に達し、バンド史上唯一のアメリカのトップ10
アルバムとなり、RIAAでプラチナ認定された。
1980年、ウェイン・ネルソン(B、Vo)が加入。
1981年リリースの『Time Exposure』は、オーストラリアの
アルバム・チャートで9位に達し、アメリカのビルボード200
では21位に達した。アルバムからは『The Night Owls』
(オーストラリアのチャートで18位、ビルボード・ホット100
で6位、アダルト・コンテンポラリー・チャートで33位)、
『Take It Easy on Me』(ビルボード・ホット100で10位、
アダルト・コンテンポラリー・チャートで14位)、
1982年リリースの『Man on Your Mind』(ビルボード・ホット100
で10位、アダルト・コンテンポラリー・チャートで26位)の
3枚のシングル・ヒットを放った。アルバムはRIAAによりゴールド
認定された。
このアルバムを最後にグレン・ショーロックが脱退
(1987年に再加入、1996年再び脱退)。1982年、後任として
ジョン・ファーナムが加入する(1987年に脱退)。
1992年には、作曲面でも中心的存在であったギタリストの
グレアム・ゴーブルが脱退。1989年に加入したプレイヤーの
ピーター・ベケットが後任ギタリストとなる(1997年に脱退)。
バンドはメンバー・チェンジを繰り返し、現在、創設時メンバー
は皆無となっている。
バンドはオーストラリアで多くの音楽賞を獲得したほか、
アメリカでも1977年から1981年の間『Sleeper Catcher』
(1978年)と『First Under the Wire』(1979年)の2枚の
プラチナ・アルバムと、『Diamantina Cocktail』(1977年)と
『Time Exposure』(1981年)の2枚のゴールド・アルバムを
獲得。
また、『It’s a Long Way There』、『Help Is On Its Way』、
『Reminiscing』、『Lonesome Loser』、『The Night Owls』、
などを含む13曲ものトップ40のシングル・ヒットを達成した。
レコードは2500万枚以上のセールスを記録し、アメリカでも
商業的成功をおさめた。
オーストラリアで最も重要なバンドの一つとされている。
Little River Band – Reminiscing
リトル・リバー・バンドを初めて知ったのが
この『Reminiscing』でした。
洗練されたメロディーがいつの時代にもマッチします。
『Cool Change』は、さわやかなメロディと美しい
ハーモニーが秀逸の、夏にピッタリの一曲です。
コーラスが秀逸!!
Little River Band – Cool Change
プログレッシヴなサウンドと美しいハーモニーを
聴かせてくれる、お洒落で落ち着いた大人の雰囲気は、
70年代後半から80年代初期の良き時代を彷彿とさせます。
Little River Band – The Night Owl
Ambrosia
Ambrosia(アンブロージア)は、1970年代前半に結成された
アメリカ、ロサンゼルス出身のプログレッシヴ・ロックバンド。
1970年、デヴィッド・パック(Vo,G)、ジョー・プエルタ
(B,Vo)、クリストファー・ノース(Key)、バーリー・ドラモンド
(Ds)により結成された。
創設時は、バンドはクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングに
傾倒していて、そのハーモニーを取り入れた。
その後、キング・クリムゾンに多大な影響を受けた彼らは、その
音楽の方向性も、L.Aのバンドながらプログレッシヴ・ロックへと
変化していった。
バンドはさっそくハーブ・アルパート(音楽プロデューサー、
トランペット奏者。『Rise』や『Bittersweet Samba』などの
曲で知られている)のA&Mレコードのオーディションを受けるが、
演奏は上出来とは言い難かった。
にもかかわらず、ハープ・アルパートは彼らの幾つかのデモを
レコーディングさせた。最終的に20世紀フォックスレコードとの
契約を獲得する。
1975年フレディ・ピロによるプロデュースでファースト・アルバム
『Ambrosia』をリリース。シングル『Nice, Nice, Very Nice』は
ビルボード・ホット100で63位とマイナー・ヒットに終わったが、
『Holdin’ On To Yesterday』は17位に達し、トップ20にチャート
インした。
アラン・パーソンズはアンブロージアのファーストアルバムと
2ndのレコーディング・エンジニアをつとめ、アルバムは
グラミー賞のベスト・エンジニア・レコードにノミネートされた。
1978年ワーナー・ブラザーズに移籍後初のアルバム『Life Beyond L.A.』
はフレディ・ピロとの共同プロデュースで、前2作品まで
プログレッシヴ・ロックからジャズ、R&Bの要素を取り入れた
アート・ロック、ソフト・ロックにシフトチェンジし、アルバムから
のシングル『How Much I Feel』は、ビルボード・ホット100で3位に
達した。
アルバムはリリース後の数ヶ月、各ラジオ局でオンエアされ、たちまち
評判となった。
1980年のアルバム『One Eighty』からのシングル『Biggest Part of Me』
は3週間で3位に達し、続くシングル『You’re the Only Woman (You & I)』
もビルボード・ホット100で13位に達した。『Biggest Part of Me』は
1981年のグラミー賞最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス賞
にノミネートされた。
1982年、デイビッド・C・ルイス(Key)にかわりブルース・ホーンズビー
がツアー・メンバーとして加入する。
同年、バンドはフレディー・ピロの製作会社の援助なしで、ジェームズ・
ガスリーのプロデュースによる『Road Island』をリリース。
中には『Feelin’ Alive Again』、『Endings』といったバラード曲も
含まれているが、全体的にはハードロックにより近いプログレッシヴ・
ロックの構成となっている。
アルバム『Road Island』は『How Can You Love Me』がマイナーヒット
となるが、商業的には成功しなかった。
これが彼らの最後のスタジオ・アルバムとなった。
1982年にバンドは解散する。
1985年、デヴィッド・パックはソロ・アルバム『Anywhere You Go』
をリリース。その中の楽曲『Prove Me Wrong』が1985年の映画
「ホワイトナイツ/白夜」のサウンドトラックに使用された。
また、親友であるマイケル・マクドナルドとジェームス・イングラムを
フィーチャーした収録曲『I Just Can’t Let Go』(13位)や
『That Girl is Gone』(16位)のこれらの曲はアダルト・コンテンポラリー・
チャートを飾った。
また、アラン・パーソンズ(1975年、エリック・ウールフソン
(1945年3月18日-2009年12月2日)と結成したアラン・パーソンズ・
プロジェクトの中心人物。セッション・メンバーとして『Magic』などで
知られるPilotのデヴィッド・ペイトン(B、Vo)、イアン・ベアーンソン
(G)はほとんどのアルバムに参加した)の初のソロアルバム
『Try Anything Once』でシンセサイザー、ギター、バッキング・ヴォーカル
で参加。
その他、トム・スコット、レナード・バーンスタインなど、多くの
トップ・アーティストと仕事をし、ソロ・アーティストとしてのキャリア
を重ねていった。
1993年1月と1997年には、ビル・クリントン前大統領の就任式の
音楽ディレクター、プロデューサーをつとめた。
ジョー・プエルタは、ブルース・ホーンズビーのバンド、ブルース・
ホーンズビー&ザ・レインジの創設メンバーとして活動。
バンドはアルバムタイトル曲『The Way It Is』のシングル・ヒットを
生みだし、アルバム『The Way It Is』はマルチプラチナに認定された。
1989年にバンドはオリジナルメンバーで再結成。
1997年、ワーナー・ブラザーズから、アンブロージアの5枚のアルバム
の最大のヒット曲に加え、新しい3トラックを追加したアルバム
『Anthology』をリリースする。
バンドは1975年から1980年の間に『Holdin’ On To Yesterday』を
はじめ、『Magical Mystery Tour』(Beatles Cover)、
『How Much I Feel』(アダルト・コンテンポラリー・チャートで11位、
ビルボードホット100で3位、カナダのシングルチャートで2位)、
『Biggest Part of Me』(アダルト・コンテンポラリー・チャート、
ビルボードホット100で3位)、
『You’re the Only Woman (You & I)』(ビルボードホット100で13位、
アダルト・コンテンポラリー・チャートで5位)など、あわせて5つの
トップ40ヒット・シングルを放った。
2000年、中心人物のデヴィッド・パックが脱退するが、1980年代以降
から現在まで、バンドメンバーのほとんどが過去25年継続して活動を
している。
Ambrosia – How Much I Feel
受験生だった頃、机に向かって勉強していた時聴いていた
ラジオから、ふと流れてきた『How Much I Feel』。
その美しいメロディは心に残り、つい、勉強机に曲名を
書きとめた記憶があります。
Ambrosia – You’re the Only Woman (You & I)
70年代後半から80年代、わずか7年の間にいくつもの名曲を
世に送り出したアンブロージア。都会的で洗練されたメロディーの
数々は、人々の心を魅了しました。
まさにAORを代表するバンドといっていいでしょう。
風格を感じさせます。
Ambrosia – Biggest Part of Me
Pablo Cruise
パブロ・クルーズは、1973年にサンフランシスコで結成された
ロックバンド。
1973年にサンフランシスコでデヴィッド・ジェンキンス(Vo,G)、
コーリー・レリオス(Key,Vo)、スティーブ・プライス(Ds)、
バド・コックレル(B,Vo、1977年に脱退、後任として
ブルース・デイが加入)により結成された。
1975年、セルフタイトルのデビュー・アルバム『Pablo Cruise 』を
リリース。アルバムはマイナー・ヒットに終わったが、翌1976年
リリースの2ndアルバム『Lifeline』は,アメリカのアルバム・チャート
で139位に達した。
アルバムからの『Zero To Sixty In Five』は、1977年公開のサーフィン
映画『Free Ride』のテーマ曲として使用されたほか、様々なスポーツ
テレビ番組のテーマ曲として使用された。
1977年リリースのアルバム『A Place in the Sun』は、カナダで
ゴールド・ディスク、アメリカでプラチナ・ディスクを獲得。
第1弾シングル『Watcha Gonna Do』はビルボード・ホット100で
6位に達し、タイトル曲の第2弾シングル『A Place in the Sun』も
ビルボード・ホット100で42位に達した。
続く1978年リリースの『Worlds Away』もオーストラリア、
カナダでゴールド・ディスク、アメリカでプラチナ・ディスクを
獲得した。
4枚のシングル『Whatcha Gonna Do?』、『Love Will Find a Way』、
『I Want You Tonight』、『Cool Love』はトップ20に達した。
1986年にバンドは解散。デヴィッド・ジェンキンスは1987年、
ドゥービー・ブラザーズのメンバーであるキース・クヌーセン
(Ds)とジョン・マクフィー(G)、ジェリー・シェフ(B、息子の
ジェイソン・シェフはシカゴのベーシストとして活動している)
が1983年に結成したバンド、サザン・パシフィックに加入
(1989年に脱退)。
その後1996年にオリジナル・メンバー、デヴィッド・ジェンキンスと
バド・コックレル(2004年に脱退)が集結。バンドを再結成した。
バンドに在籍していた2人のベーシスト、バド・コックレル
(2010年3月6日、糖尿病の合併症により59歳で亡くなった)と
ブルース・デイ(1999年6月30日、48歳で亡くなった)は若くして
この世を去っている。
2004年、オリジナルメンバーであるデヴィッド・ジェンキンス、
コーリー・レリオス、スティーブ・プライスの3人でバンドを
再結成する。
2010年、ベーシストとしてラリー・アントニーノ(EX-エア・サプライ、
Unruly Child)が加入。現在にわたって活動中。
Pablo Cruise – Zero To Sixty In Five
インストゥルメンタル曲『Zero To Sixty In Five』は、
パブロ・クルーズの名曲です!!
『Love Will Find A Way』は、昔聴いていたFEN
(現AFN)でよくかかっていた曲でした。
この曲を聴くと夏を思い出します。
Pablo Cruise – Love Will Find A Way
彼らの曲は、まさに夏にピッタリ!!
目を閉じて聴くと、サンフランシスコの青い空と海、
爽やかに吹きわたる風を想像させてくれます。
Pablo Cruise – I Go To Rio(Peter Allen Cover)
Kalapana
Kalapana(カラパナ)は、ハワイ、ホノルル出身の
ロックバンド。
『The Hurt』、『Naturally』のソフトロックの名曲で知られている。
1973年に、幼なじみデイビッド・ジョン(D・J)プラット(G)と、
マラニ・ビリュ―(Vo,G)は、マッキー・フェアリー
(Vo、G、1999年2月20日、43歳で亡くなった)とカーク・
トンプソンとともにカラパナを結成。彼らは、サックス、
フルートのジャッキー・ケルソ、べースのビル・ペリー、
ドラムのラリー・ブラウンを迎え、1975年、セルフ・タイトルの
デビュー・アルバム『Kalapana』(邦題:ワイキキの青い空)を
リリースする。
1978年リリースのアルバム『Many Classic Moments』は同名の
サーフィン映画のサウンド・トラック盤として制作され、タイトル
トラック『Many Classic Moments』、『I’d Chase A Rainbow』、
『Black Sand』などが収録されている。
現在のメンバー
・D・J.プラット(G)
・マラニ・ビリュ―(Vo,G)
・ゲイロード・ホロマリア (Key)
・佐野 健二(B)
Kalapana – The Hurt
『Many Classic Moments』と『Black Sand』
(邦題:ワイキキの熱い砂)は、FMラジオやAFNなどでよく
かかっていました。
カラパナは、夏の訪れとともに、涼やかで素敵な音楽の風を
運んできてくれました。
Kalapana – Black Sand
70年代から80年代にかけて、チャック・マンジョーネ
(『Feels So Good』(1978年5月13日アダルト・コンテンポラリー・
シングルチャートで1位)、『Give It All You Got』などで知られる)
や、ハーブ・アルパート(『Rise』は1979年9月22日アダルト・
コンテンポラリー・シングルチャートで1位)といったジャズ・
アーティストによるスムースジャズ、クロスオーヴァー音楽の
フュージョンと呼ばれたジャンルは、アダルト・コンテンポラリー
の代表格として流行しました。
それに伴い、ロックバンドのヴォーカルを入れない、いわゆる
インストゥルメンタルの曲からも多くのヒット曲が誕生しました。
その中でもこの『Black Sand』はインストゥルメンタルの
名曲といえるでしょう!!
中でもこの『Juliette』(邦題:愛しのジュリエット)は、
1番のお気に入りです!!
Kalapana – Juliette
Christopher Cross
Christopher Cross(クリストファー・クロス)はアメリカの
シンガー・ソングライター。
1979年、アルバム『Christopher Cross』(邦題:南から来た男)
でデビュー。
収録の『Ride Like The Wind』(邦題:風立ちぬ)はSaxonや
ヨルン・ランデなどのメタルバンドやアーティストがカヴァー
している。
グラミー賞で5部門を獲得。アルバムはアメリカで500万枚
以上のセールスを記録し、マルチ・プラチナに輝いた。
Christopher Cross – Ride Like The Wind
デビュー当初は素顔を隠して活動をしていたようですが、
その美しい歌声はたちまち人々の心を捉えました。
『Ride Like The Wind』は、バッキング・ヴォーカルで
マイケル・マクドナルドが参加しています。
Christopher Cross – Sailing
『Arthur’s Theme』(邦題:ニューヨーク・シティ・セレナーデ)は
1981年のダドリー・ムーア(イギリスの俳優、コメディアン、
ミュージシャン。1935年4月19日-2002年3月27日)主演のコメディ
映画「Authur(邦題:ミスター・アーサー)」の主題歌です。
Christopher Cross – Arthur’s Theme
The Doobie Brothers
The Doobie Brothers(ドゥービー・ブラザーズ) はアメリカの
ロックバンド。
1970年、トム・ジョンストン(Vo,G)、パトリック・シモンズ
(G, Vo)、デイヴ・ショーグレン、ジョン・ハートマン(Ds)に
より結成された。
1975年、病気のため離脱したトム・ジョンストンに替わり、
コンポーザーとしてマイケル・マクドナルドがアルバム
『Takin’ It to the Streets』(1976年)より参加する。
パトリック・シモンズによると、マイケル・マクドナルドを
リード・シンガーに起用することやハモンド・オルガンやキーボードを
導入し、今までのギターロックとは異なるサウンドとなることに
消極的だったバンドに、プロデューサーのテッド・テンプルマンは
「あなた方はここに未完の大器を持っている。今すぐ前に進むべきだ」
と励ましたという。
タイトルトラック『Takin’ It to the Streets』はビルボードホット100で
13位に達した。
1978年リリースのアルバム『Minute by Minute』はビルボード200で
バンド初の1位を獲得。1984年10月22、RIAAよりマルチプラチナに
認定された。
以降、70年代後半から80年代初頭のAORやソフト・ロック、
フュージョンなどの音楽の流行に伴い、彼らの音楽も
従来までのファンキーなギター・ロックからソフト・ロック、
ブルー・アイド・ソウル・サウンドへと方向性を変えていく。
当初は賛否両論もあったが、バンドは新たなファン層を獲得し、
その人気を確固たるものとした。
1981年、リーダーのパトリック・シモンズ(G、Vo)がバンドを
脱退。マクドナルドをはじめ、それぞれソロ活動もしていた
バンドメンバーは解散を選択。Farewell Tour後の1982年に
解散となる。
解散後、メンバーはそれぞれソロ活動を開始。1986年頃
トム・ジョンストン(Vo、G)とパトリック・シモンズは一緒に
プロジェクト・アルバムの作業を始めるも途中で断念。
1983年、キース・クヌーセン(Ds)とジョン・マクフィー(G)
はサザン・パシフィックというバンドを結成。4枚のアルバムを
リリースした。
マイケル・マクドナルドはソロ・アーティストとして活動。
彼の歌声は、1980年代を通じてアダルト・コンテンポラリー・
ラジオで優位を占めた。
1987年バンドは再結成、創設メンバーであるトム・ジョンストンが
復帰。1981年解散時のメンバーや元メンバーが集結して
再始動した。
2004年、Vocal Group Hall of Fame(アメリカのペンシルベニア州、
シャロンにある「ヴォーカル・グループ・ホール・オブ・フェイム&
ミュージアム」は1998年、レターメンのトニー・ブターラが共同設立
し世界中の優れたヴォーカル・グループを称えるために組織された。
毎年「ヴォーカル・グループ・ホール・オブ・フェイム」入り
アーティストが選定されている)は「最もポピュラーで影響力のある
ヴォーカル・グループ」の17組を発表。ドゥービー・ブラザーズは
ビートルズ、スタイリスティックス、ザ・ロネッツなどのバンドと
ともに殿堂入りを果たした。
2012年3月の時点で、ドゥービー・ブラザーズに在籍していた
5人のメンバーが故人となっている。
1992年12月24日、ドラマーのボビー・ラカインドが末期の
大腸がんとの長い闘病ののち47歳で亡くなった。
1999年12月14日、創設メンバーでありベーシストの
デイヴ・ショーグレンが肺炎により49歳で亡くなった。
2004年2月4日、ヴォーカリスト、キーボード、フルートと
サックス奏者のコーネリアス・バンパスがソロ・ツアーのため
飛行機でカリフォルニアへ向かう途中の機内で、心臓発作に
より58歳で亡くなった。
2005年2月8日、ドラマー、ヴォーカリストのキース・クヌーセンが、
がんに起因する肺炎で56歳で亡くなった。
2012年3月12日、ドラマー、マイケル・ホサックががんにより
65歳で亡くなった。
相次いでドゥービー・ブラザーズ・ファミリーの5人を失うという
悲劇に見舞われるが、バンドは1970年の結成以来、45年にわたり
活動を続けている。
The Doobie Brothers – Echoes of Love
言わずと知れた、アメリカを代表するロックバンド。
45年もの間、メンバー・チェンジを繰り返しながら
今もなお活動を続けている偉大なバンドです。
1979年リリース『Minute by Minute』からの大ヒットシングル
『What a Fool Believes』は、マイケル・マクドナルドと
ケニー・ロギンスとの共作となっています。
The Doobie Brothers – What A fool Believes
バンドの1970年初頭、トム・ジョンストン在籍時の
『Listen To The Music』、『Jesus is Just Alright』、
『Long train running』、『China Grove』などの曲もすごくイイ!
ですが、マイケル・マクドナルドのそのハスキーでソウルフルな
ヴォーカルと、都会的で洗練されたその音楽は、当時は新鮮で
耳に心地よかったです。
The Doobie Brothers – Real Love
Michael McDonald
Michael McDonald(マイケル・マクドナルド)は、アメリカの
ミズーリ州セントルイス出身のアイルランド系アメリカ人。
ソングライター、キーボーディスト。
「ブルー・アイド・ソウル」を代表するシンガー。
元スティーリー・ダンのセッション・メンバーでキーボード、
『Katy Lied』、『Peg』などのバッキング・ヴォーカルを担当。
ドゥービー・ブラザーズの元ヴォーカリスト、キーボーディスト
として著名。
1975年、元スティーリー・ダンでバンドメンバーだった
ジェフ・バクスターの推薦によりドゥービー・ブラザーズに加入。
1976年リリースのアルバム『Takin’ It to the Streets』より
リード・ヴォーカルとして参加する。
バンドはR&Bに影響を受けたブルー・アイド・ソウルの
ミュージシャン、マイケル・マクドナルドをヴォーカリストと
して迎え、これまでのファンキーなギター・ロックから一変して
都会的で洗練されたR&B、ポップ・ロックへと方向転換する。
当時音楽の流行がソフトロックやブルー・アイド・ソウルなどの
ソフト・アンド・メロウ(落ち着いた、円熟したという意味で、
80年代日本でたびたびこの用語が使われた)なものとなっていた
こともあり、バンドは新たなファン層を獲得、世界中で人気を
博した。
また、ケニー・ロギンスのアルバム『Keep the Fire』の曲
『This is it』はケニー・ロギンスとの共作で、ビルボード・ホット・
ソウル・シングルチャートで19位、アダルト・コンテンポラリー・
チャートで17位、ビルボードホット100で11位に達し、
ケニー・ロギンスはこの曲で1981年のグラミー賞の最優秀男性
ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞した。
1982年のドゥービー・ブラザーズの解散後はソロ・アーティストと
して活動。ソロ・アルバム『If That’s What It Takes』には、
TOTOのスティーヴ・ルカサー(G)、ジェフ・ポーカロ(Ds、
1954年4月1日-1992年8月5日)、グレッグ・フィリンゲインズ
(Clavinet)が参加した。
アルバムからは『I keep forgetting』がシングル・リリースされ、
ビルボード・ポップシングルチャートで4位、ビルボードR&Bチャート
で7位に達した。
『I Keep Forgettin』は、ウォーレン・G(ft. Nate Dogg)の
『Regulate』や、ヤングMCの『Love You Slow』、ジェイダキス
(ft. Nate Dogg)の『Kiss Is Spittin’』など、多数の
ヒップホップMCにサンプリングされている。
また、マイケル・マクドナルドをフィーチャーした『I Keep Forgettin』
がジュリア・フォーダムによりカヴァーされている。
以降、マイケル・マクドナルドはアダルト・コンテンポラリーや
R&B、ポップ・ロック部門でのチャートの上位を占めていく。
1986年、パティ・ラベルとデュエットしたシングル『On My Own』は
3週間ビルボードチャートの1位をキープし、イギリスのシングル・
チャート、アメリカのビルボードホット・アダルト・コンテンポラリー・
トラックで2位、カナダのRPM Magazine 100、オランダのシングル・
チャート、アメリカのビルボードホット・ブラック・シングル、
ビルボードホット100で1位となり、R&Bやアダルト・コンテンポラリー・
チャートの上位を占め、両者のこれまでで最大のヒット・シングルと
なった。
McDonald- I Keep Forgettin
大人のムード漂う名曲『You Belong To Me』は、
シンガーソングライターで歌手のカーリー・サイモン、
マイケル·マクドナルドの共作となっています。
Michael McDonald – You Belong To Me
『Sweet Freedom』はアメリカの1986年のアクション/コメディ映画
「Running Scared」(邦題:シカゴ・コネクション/夢みて走れ)の
サウンドトラックで1986年にリリースされた。
ビリー・クリスタルとグレゴリー・ハインズの楽しげなダンスの
映像も交えて、若き日のマイケル・マクドナルドのヴォーカル&弾き語りが
イイ味出しています!!
Michael McDonald – Sweet Freedom
次月は、第2弾をお届けします!
では、また!!