80’s New Wave / Post-punk bands

 

 

 

 

 

今回は、70年代から80年代にイギリスで一大ムーヴメントを

巻き起こした、ポストパンクのバンドを紹介します。

 

 

 

 

 

The Cure

1978年、前身バンドとなるイージー・キュアーを母体として、

ロバート・スミス、マイケル・デンプシー、ローレンス・トルハーストの

スリーピース・バンドを結成。

1979年にシングル『Killing An Arab』でフィクション・レコードよりデビュー。

1980年、最初のコンピレーション・アルバム『Boys Don’t Cry』をリリース。

『Boys Don’t Cry』、『Kill​​ing an Arab』、『Jumping Someone Else’s Train』が

シングルリリースされ、アルバムは批評家からの好評を博した。

ポストパンク期にリリースされたデビュー・アルバム『Three Imaginary Boys』は、

シンプルながらもクールで捻くれたギターサウンドが特徴的で、記号化された

スリーヴ・デザインと相まって、すでに独自の世界観を築き上げていた。

また、ロバートはスージー・アンド・ザ・バンシーズのツアーのサポート・

ギタリストとして活動した。

マイケルに代わり、サイモン・ギャラップとマシュー・ハートリーの2人を

加えて作られた2ndアルバム『Seventeen Seconds』は、前作にもあった

ミニマル要素を発展させた内容で、初めて全英トップ20入りした『A Forest』や

ライヴでのファンの合唱でお馴染みの『Play For Today』が収録されている。

1981年リリースのアルバム『Faith』のタイトル曲はロバートの宗教観を歌った

ものであるという。だが、サウンドと同様にバンド内の緊張感も次第に強まって

いき、4thアルバム『Pornography』で爆発する。ロバートの死に対する

オブセッションと行き場のない怒りを反映した本作にて、リズムマシンと

シンセサイザーを大胆に導入し、ヘヴィーでダークな極彩色のサイケデリック・

サウンドへと変貌を遂げた。

そして極度の緊張の中で制作されたためにメンバー間の仲は最悪なものとなり、

ツアー中にロバートとサイモンは大喧嘩をして、サイモンはバンドを去り、

ロバートは活動の休止を決意した。

 

 

この時期、ロバートはスージー・アンド・ザ・バンシーズとキュアーの活動を

掛け持ちしており、バンシーズのベーシスト・スティーヴ・セヴェリンとの

プロジェクト、ザ・グローヴの活動も並行して行い、アルバム『Blue Sunshine』が

制作された。

一方キュアーでは、フィクション・レコードのオーナー、クリス・パリーの勧めに

より制作されたファンタジー三部作と呼ばれるシングル(『Let’s Go To Bed』、

『The Walk』、『The Lovecats』)がヒット。この三部作は、ロバートを

『Pornography』の悪夢から解放するのに貢献する。

このハードなスケジュールにより体調を崩したロバートは、キュアーとバンシーズの

どちらを取るかの選択に迫られたが、結局キュアーを選ぶことになる。

そして旧友ポール・トンプソン、ドラマーのアンディ・アンダーソン、

『Pornography』のエンジニアだったフィル・ソーナリーを新メンバーとして迎え、

キュアーの本格的な活動を宣言した。

 

 

1984年、5thアルバム 『The Top』をリリース。

フィルの代わりにサイモンが復帰、また、アンディの代わりとしてボリス・

ウィリアムスが参加したラインアップで1985年リリースされたアルバム

『The Head On The Door』は、新生キュアーの躍動感と充実感がある力作で、

バンドの世界進出の足がかりとなる。

1987年、7thアルバム『Kiss Me, Kiss Me, Kiss Me』がリリースされ、

キュアーというバンドが持つ魅力と可能性を凝縮したバラエティーあふれる

内容で、世界中で熱狂的なヒットを記録、キュアーをイギリスのカルト・

バンドから世界的なロック・バンドへと推し進めることになった。

今作のツアーでは、アルコール中毒で演奏力に問題を抱えるロルに代わる

キーボード奏者としてロジャー・オドネルが参加、ロバート、ポール、サイモン、

ボリス、ロジャーというキュアーの黄金期のラインアップが完成する。

誰もが、今後のキュアーはこの路線を突き進んでゆくものと思っていたが、

ロバートの出した回答は全く逆のものであった。

1989年のアルバム『Disintegration』は原点回帰ともいえる、かつてのキュアーを

彷彿とさせるような陰鬱とした内容で、いわゆる商業的路線からは逸脱していた。

うろたえたレコード会社はロバートに再考を迫り再三に渡り勧告をしたが、

ロバートはそれを無視してリリースを強行した。ところが、レコード会社の心配を

よそに『Disintegration』は全世界で300万枚を売り上げる大ヒットを記録。

特にアメリカでの人気が爆発し、キュアーをスタジアム級のモンスターバンドへと

昇華させることとなった。

しかし、長期に渡るツアーはメンバーを疲弊させ、ロバートはツアー最終日、

ロンドンのウェンブリー・アリーナで解散を匂わせる発言をした。

 

 

誰もがキュアーは終わったと思っていたが、ロバートは何事もなかったように

キュアーの活動を再開させる。ギター・ローディ出身のペリー・バモンテを

新たに加え、初心に帰るべくライブハウス・ツアーを精力的に行ったことが

新たな意欲を呼び覚ますなどバンドに好影響をもたらした。シーンもキュアーを

温かく迎え入れ、1990年には『Lullaby』がブリット・アワードの

「Best British Music Video」に選ばれ、翌1991年にはMTVアンプラグドに出演。

さらにブリット・アワードの「Best British Group」に選出される。

1992年にリリースされたアルバム『Wish』はイギリスで1位、アメリカで2位を

記録する大ヒットになり、キュアーは名実共に世界的なトップ・バンドとなる。

 

 

ポールとボリスが脱退し、黄金期は終焉を迎える。

ロジャー・オドネルを復帰させ、ジェイソン・クーパーをオーディションを経て

加入させるが、かつてのバンドらしさはなく、ロバートのワンマン的な印象は

否めなくなる。

1996年のアルバム『Wild Mood Swings』が商業的に失敗すると、ロバートは徐々に

キュアーに対する意欲を失って行き、2000年のアルバム『Bloodflowers』リリース

時には公式に解散を宣言。レコード会社もラスト・アルバムとして売り出すが、

その完成度の高さと売り上げ好調に気を良くしたロバートは、キュアーという

バンドの可能性を再認識し、解散宣言をメディアのせいにして無かったことにした。

 

 

これまでの活動の集大成ともいえる、暗黒三部作(『Pornography』、『Disintegration』、

『Bloodflowers』)を全曲収録したライヴDVD『Trilogy(2003)』をリリースして

長年来の『Pornography』期の悪夢と折り合いをつけたロバートは、いよいよ念願の

ソロ活動を行おうとしていたが、スリップノットやコーンで高名なプロデューサーで

あるロス・ロビンソンに説得され、通算12作目のアルバムの制作を決意。

2004年、アルバム『The Cure』をリリース。結成26年目にして初のセルフタイトルが

冠されたが、皮肉にもこれが10年続いた史上最長ラインアップの最後のアルバムと

なった。

また、この頃から若いバンドたちからのリスペクトが相次ぎ、ロバートは多くの

コラボレーション作品に積極的に参加するようになる。

 

 

アルバム『The Cure』にて精神的な若返りを果たしたロバートは、バンド内に

変革を起こすために10年在籍したロジャーとペリーを脱退させ、ポールを再加入

させた。

10年振りに4人組となったキュアーは世界各地を回りながら、13枚目となる

アルバムのレコーディングを断続的に続けていた。

2008年5月からは13作目のオリジナル・アルバムにちなみ、4ヶ月連続で毎月13日に

EPを、さらに9月には、フォロアーたちによるリミックスEPをリリース。

そして10月に満を持して4年ぶりとなるアルバム『4:13 Dream』をリリースした。

 

 

2011年、バンドは『Faith』リリース20周年を記念して、デビュー・アルバム

『Three Imaginary Boys』、セカンド・アルバム『Seventeen Seconds』を

加えた初期3作の収録曲を全曲演奏する「The Cure “Reflections”」公演を

シドニーで実施。

この企画にはギターのポールが不参加ながら、ロジャーとロルというかつて

在籍した新旧のキーボード・メンバーが同時出演してバンドとの久しぶりの

共演を果たした。

同年9月ワイト島で行われたロック・フェス「ベスティヴァル」での

ヘッドライナー公演を経て、11月には、ロジャーが正式メンバーとしてバンドに

再々加入することが発表され、5年ぶりにキーボード奏者がバンド内に復帰。

これと入れ替わる形で、ポール・トンプソンは再脱退となった。

2012年にはデヴィッド・ボウイのティン・マシーンのメンバーであり

『Wrong Number』でコラボレーションしたギタリストのリーヴス・ガブレルスを

新たなメンバーに加えて、バンドは5人体制となった。

以降はライブ活動を活発化させており、レディング&リーズやロスキルド、

ロラパルーザといった世界中の巨大フェスでのヘッドライナーを歴任しながら、

精力的なワールド・ツアーを展開。2019年には、ロックの殿堂入りを果たした。

 

 

The Cure – Boys Don’t Cry

 

The Cure – Friday I’m In Love

 

The Cure – Close To Me

 

The Cure – Just Like Heaven

 

 

 

 

 

The Jam

The Jam(ザ・ジャム)は、イギリスのロックバンド。

1977年、ポール・ウェラーを中心にロヴンドンで結成された。

パンク・ムーヴメントの全盛期にデビューしながらモッズ・スタイルを貫き、

R&B方面にもアプローチをすることでオリジナリティーを獲得した。

 

 

1972年にロンドン郊外のサリー州ウォキングで、当初はビートルズなどの

カバーをするパーティ・バンドとして結成された。

結成当時はポール・ウェラーがベース、ブルース・フォックストンと

スティーヴ・ブルックスがギター、リック・バックラーがドラムスという

4人体制であったが、スティーヴの脱退と共にポールがギターを、ブルースが

ベースを担当するようになる。

セックス・ピストルズのライブにインスパイアされ、バンドは徐々にモータウン

などのR&Bを高速で演奏するスタイルに変化。

やがてオリジナル中心となり、イギリスを席巻していたパンクムーブメントの

真只中である1977年の2月にポリドールと契約。

4月にシングル『In the City』、同タイトルのファーストアルバム『In the City』が

5月に発売された。

当時18歳のフロントマン、ポール・ウェラーのルックスとはあまりに対照的な

激しいコードカットとヴォーカル、ブルース・フォクストンのヘビーかつタイトな

ベース、リック・バックラーの疾走感溢れるドラムスにより生み出される

ジャムサウンドは、既にライブにおいて一部の熱狂的なファンに支持されていた。

パンク/ニュー・ウェイヴの追い風もあり人気を獲得した彼らは、その勢いに

乗って2ndアルバム『This Is the Modern World』を発表するものの、前作ほどの

成功は収められなかった。

1978年にリリースされた3rdアルバム『All Mod Cons』は、ザ・フー、

スモール・フェイセスやモータウンサウンドの影響を受けたR&Bが取り入れられた

サウンドを創り出し、モッズとしてのアイデンティティー、独自性を前面に

打ち出した傑作となった。特にウェラーのソングライティングが進境を見せ、

アコースティックギターによる『English Rose』や夜の都会の風景を描く

『Down in the Tube Station at Midnight』等、これまでのストレートな

イメージとは一線を画す楽曲を作り出している。

『All Mod Cons』はファン、ジャーナリズムに高く支持され、バンドの最初の

ピークとなり、これを機にジャムの快進撃が始まる。

1979年発表の4thアルバム『Setting Sons』では、『The Eton Rifles』、

『Girl on the Phone』などのストレートなジャムサウンドに加え、ヘヴィな

展開を見せる『Private Hell』や曲調の変化に富んだ『Little Boy Soldier』、

ウェラーのロマンチストとしての一面を覗かせる『Wasteland』などが収録され、

3rdアルバムと並ぶ傑作とファンの呼び声も高い。

同年のイギリスの音楽情報誌「New Musical Express」でのリーダーズポールでは、

ベストバンド、ベストアルバム(『Setting Sons』)、各プレイヤー等の主要部門を

独占、イギリスでの人気が絶大なものであることを世に知らしめた。

以降、解散まで同誌でのベストバンドの座は譲らなかった。

 

1980年、シングル『Going Underground』をリリース。元々はカップリングの

『Dreams of Children』と両A面の予定だったが、レコードプレスの間違いで

『Going Underground』がA面扱いとなったこのシングルはイギリスで1位を獲得。

同年、5thアルバム『Sound Affects』では先の『Dreams of Children』でも

その予兆が見られたサイケデリックな要素等、さまざまな音楽を取り入れた実験性、

重厚な音作りを見せる。『Start!』、『That’s Entertainment』がシングルリリース

された。『That’s Entertainment』はファンの人気も高く、ウェラー自身も後の

ソロキャリアでも取り上げる程の代表曲の一つとなった。この曲はモリッシー等に

カバーされている。

1982年、アルバム『The Gift』をリリース。ホーンセクションの導入、ファンク、

カリプソ等の要素を取り入れ音楽性の振幅はさらに広くなり、モータウン調の

『A Town Called Malice』がシングルリリースされ1位となる。

このアルバムでのブラックミュージック寄りの音作りは、後のスタイル・カウンシル

への先鞭ともなる。

しかし、音楽的には充実期を迎えていたものの、ウェラーは「ザ・ジャム」という

枠組みの中での活動に終止符を打つ事を選び、「自分たちの成し遂げた事に意味を

持たせたい」というコメントと共に同年10月に突如、解散を宣言した。

間髪を容れず発表されたラストシングル『The Beat Surrender』は1位を獲得した。

イギリスで絶大な支持を得ていたさなか、同年12月11日のブライトンでの

ラストギグを最後にバンドは解散。 解散後、ウェラーは元マートン・パーカスの

Mick Talbot(ミック・タルボット、Key)とスタイル・カウンシルを結成する。

 

 

ジャムはパンク・ロックに分類される事が多く、当時ウェラーも

「セックス・ピストルズにインスパイアされた」と語りデビュー当時の作風には

パンクの影響が色濃かったが、ウェラー自身は元々スティーヴ・マリオットや

ザ・フー、更にモータウンやスタックスといったR&Bの大ファンであり、

ファッションにしても細身のスーツにネクタイ、カラフルなシャツ、スカーフと

いったパンクとは異なるものをスタイリッシュに着こなしていた。

モッズを意識した作品を作り続けたことからモッズフリークからは

「モッド・ファーザー」とも呼ばれている。 一方で、ワーキングクラス出身の

リアリティを見せるシリアスな歌詞と時々織り込まれるユーモア、インタビューでの

政治的な発言とソリッドでハードなジャムサウンドから、やはり彼らは

パンク/ニュー・ウェイヴの中心的存在であり、そのようなムーヴメント、

カテゴリを飛び越え、当時のイギリスの普通の若者達から絶大な支持を受けた

特異な存在であった。

2007年、デビュー30周年を機にポール・ウェラー抜きで「From The Jam」名義の

再結成ツアーが行われた。

 

 

The Jam – The Eton Rifles

 

The Jam – Going Underground

 

The Jam – Town Called Malice

 

The Jam – In The City

 

 

 

 

 

Echo & the Bunnymen

Echo & the Bunnymen(エコー&ザ・バニーメン)は、イギリスのロックバンド。

1978 年にリバプールで結成された。

オリジナルのラインアップはIan McCulloch(イアン・マッカロク Vo)、

Will Sergeant(ウィル・サージェント G)、Les Pattinson(レス・パティンソン B)。

のちにPete de Freitas(ピート・デ・フレイタス 1979–1989;1989年死去)が

ドラマーとして参加した。

 

 

イアン・マッカロクは、1977 年にJulian Cope(ジュリアン・コープ)とPete Wylie

(ピート・ワイリー)をフィーチャーした短命のバンドCrucial Threeの1人として

キャリアをスタートさせた。

ワイリーが去ったとき、マッカロクとコープは、ドラマーのデイブ・ピケットと

オルガニストのポール・シンプソンと共にA Shallow Madnessを結成し、その間に

Read It in Books』などを演奏した。

マッカロクがバンドを脱退したとき、A Shallow MadnessはThe Teardrop Explodesに

変名した。、そしてマッカロクは、ギタリストのウィル・サージェントと

ベーシストのレス・パティンソンと合流して、エコー&ザ・バニーメンを結成。

1978年11月、The Teardrop Explodesのオープニング・アクトとして

リバプールのEric’s Clubで初ライヴを行う。

1979年、Zoo Recordsよりデビューシングル『The Pictures on My Wall』をリリース。

B面は『Read It in Books』(この間、The Teardrop Explodesもレコーディングを

しており、マッカロクとのコラボレーションとしてクレジットされているが、

マッカロクは、コープがその執筆に関与していたことを度々否定している)。

 

 

バンドは注目を集めるようになり、8月22日にBBCのJohn Peel Showに

招待され、そのために4曲をレコーディングするよう頼まれた。

1980年、マネージャーのBill Drummondと彼のビジネス・パートナーである

The Teardrop ExplodesのDavid Balfeが共同プロデュースした1stアルバム

『Crocodiles』をリリース。シングル『Rescue』はイギリスのシングル

チャートで62位という結果であったが、アルバムはイギリスでトップ20入りを

果たし、評論家の称賛を受けた。

1981年4月から、バンドは次のアルバムの宣伝のために別のツアーを開始。

これには、ニューヨーク、トロント、ピッツバーグ、デトロイト、シカゴ、

ボストン、サンフランシスコ、ロサンゼルスでの最初のアメリカでの公演が

含まれていた。1981年半ばにはイギリスとヨーロッパでの別のショーを行い、

10月にさらにショーを行うためにアメリカに戻り、11月には、シドニーの

北のビーチにあるマンリーベールホテルでのショーと、オーストラリア公演も

1回だけ行った。

1981年、2ndアルバム『Heaven Up Here』をリリース。

バンドとヒュー・ジョーンズによってプロデュースされたこのアルバムは、

ビルボード200で184位、イギリスのチャートで10位に達し、商業的な成功を

収め、NME誌の読者人気投票で年間ベスト・アルバムに選ばれた。

 

 

1983年2月にリリースされた3rdアルバム『Porcupine』は、レーベルの

ワーナー・ブラザーズに「非商業的すぎる」として再収録を余儀なくされ、

バンドのマネージャーであるビル・ドラモンドは、著名なバイオリニストで

作曲家のシャンカールを連れてきて弦楽器を追加した。その間バンド内の

緊張は高まったが、それにもかかわらず、同年初頭に先行リリースされた

『The Cutter』は、バンドの最初のトップ10シングルとなり、アルバムは

イギリスのチャートで2位に達し、結果的に商業面での成功をもたらした。

1984年リリースの『Ocean Rain』は4位に達し、今日ではバンドの画期的な

アルバムとして広く認められている。シングル『Silver』(30位)、

『Seven Seas』(16位)は、アルバムの継続的な商業的成功を固めた。

アルバムリリース後、マネージャーのドラモンドは、バンドが次のアルバムの

曲作りのために1年間の休暇を取ることを発表したが、伝えられるところに

よると、バンドが十分な収益を上げることができず、金銭面での不満を

持っていたドラモンドは辞任。後任としてデュラン・デュランのツアー・

マネージャー、ミック・ハンコックが迎えられた。

絶賛された1984年の『Ocean Rain』リリース後、次のアルバムの

レコーディングまでの間、バンドは冬の期間休みを取ることにした。

1984年9月、マカロックはソロシングル『September Song』をリリースした。

 

 

1985年から1986年は、バンドのキャリアの転機となった。

ドラマーのピート・デ・フレイタスがメンタルヘルスの悪化と麻薬問題に

苦しんでいることを、他のメンバーと彼の家族はのちに明らかにした。

そして大晦日の後、デ・フレイタスはバンドを辞めたと発表した。

ツアー・マネージャーであるミック・ハンコックの新しい管理の下で、

バンドは1985年5月にスカンジナビアのツアーで仕事に戻った。

ツアーの約束が迫る中、残りのメンバーは急いで別のドラマーを探さなければ

ならなかった。新しいドラマーとしてブレア・カニンガムを採用したが、

1986年春のアメリカ・ツアー後に脱退した。後任として元ABCドラマーの

デヴィッド・パーマーが加入した。

バンドはブラウディとプロデューサーのクライヴ・ランガーと共に新しい

アルバムのレコーディングを開始したが、結果に不満を持っていたため

レコーディングは棚上げされた。

以前、ザ・ストラングラーズのシングル『Golden Brown』での作品に

感銘を受けたマッカロクはプロデューサーとしてローリー・レイサムを

選んだ。バンドはレイサムと会い、レコーディングを開始する。

これらのセッションからの曲は『Bring on the Dancing Horses』という

タイトルに変更され、1986年の唯一のシングルとしてリリースされた

『Jimmy Brown』を含む3曲が次のアルバムに収録された。

7月にパーマーが脱退。デ・フレイタスが再びバンドに復帰したいという

意思を表明した。他のメンバーは、彼の薬物およびメンタルヘルスの

両方の問題を懸念していたため、彼のバンドへのコミットメントと、

バンドのフルメンバーではなく、セッションミュージシャンとして

バンドに戻ることを約束させた。

『Echo & the Bunnymen』をレコーディングするラインアップで、

バンドは1986年9月、BBCテレビに生出演し『The Game』と

『Lips Like Sugar』の2曲を演奏した。

ウィル・サージェントはのちのインタビューで、バンドがワーナー・

ミュージックの会長であるロブ・ディキンズから、ピーター・ガブリエルの

最近のナンバーワンアルバムを聞かされ「こんな音にしてほしい!」と宣言

された時のことを振り返り「あの日、命からがら逃げたことを覚えている」と

語った。

この段階までに、バンドはレーベル側が考えている、より商業的な

マテリアルを期待しているという強いプレッシャーにさらされていた。

 

 

バンドはブリュッセルでローリー・レイサムとのケルンでのセッションからの

マテリアルを再レコーディングし始めたが、プロデューサーのレイサムは厳しく、

1曲に最大1か月を費やし、セッションは過酷なものであった。

また、スターの称号を欲しいままにしていたマッカロクの飲酒も徐々に増えて

いき、バンド内は険悪な空気が漂っていた。

1987年、セルフ タイトルの『Echo & the Bunnymen』をリリース。

パーマーが演奏しているが、大部分が1986年後半に復帰したデ・フレイタスに

よって再レコーディングされたものに差し替えられた。

アメリカで、バンドの最も有名な曲は『The Killing Moon』と

『Lips Like Sugar』であった。『Bring on the Dancing Horses』は、

ジョン・ヒューズの映画「プリティ・イン・ピンク」のサウンドトラックの

曲の1つとしてよく知られている。

また、ザ・ドアーズの曲『People are Strange』のカヴァー・バージョンを

「The Lost Boys」のサウンドトラックに提供し、オリジナルのドアーズの

キーボード奏者レイ・マンザレクをゲスト出演させた。『Never Stop』は、

アラン・ベネットの映画「The History Boys」で使用された。

アルバムは商業的に大きな成功を収めたが、批評家からさまざまなレビューを

受け、音楽制作に鋭く批判的なバンドに嫌われた。

 

 

オリジナルのエコー&ザ・バニーメンは1988年3月に終わりを迎えた。

日本ツアーの後、マッカロクはバンドが解散することを発表。

彼は、2回の心臓発作を起こしたばかりの父親に会うために、急遽イギリスに

向けて出発したが、マッカロクが到着する前に亡くなった。

1988年9月、マッカロクがバンドを去ることを正式に他のメンバーに通知

したとき、サージェントはマッカロクに「自分と、パティンソン、

デ・フレイタスは継続する」と言った。マッカロクは去り、後に彼の最初の

ソロアルバム『Candleland』の制作に取り掛かった。

The B-52s のシンガー、ケイト・ピアソンとシンディ・ウィルソンとの

レコーディングの試みが失敗に終わった後、グループは新しいリード・

シンガーを募集した。元コレンソ・パレードのシンガー、オスカーは

マッカロクから引き継ぐという申し出を断り、キーボーディストの

ジェイク・ブロックマン(数年前からバンドのツアー・メンバーであり、

1987年のアルバムの寄稿者。1989–1993; 2009年死去) がフル・メンバーに

昇格した。

しかし、1989年6月14日にピート・デ・フレイタスがオートバイ事故で死亡

したとき、彼らは混乱に陥った。彼はまだ27歳で、妻も生まれたばかりの

娘もいた。

ウィル・サージェントとレス・パティンソンに加え、ヴォーカルに

Vitus Danceのシンガー、ノエル・バーク、キーボードのジェイク・ブロックマン、

ドラマーのデイモン・リースというラインアップで1990年、6thアルバム

『Reverberation』をリリースする。

アルバムが1990年12月にリリースされた後、批評家のレビューは好意的では

なかった。批評家は、バークはバンドに不可欠な存在のマッカロクの代わりと

しては不十分であると指摘した。アルバムがチャートインできなかった後、

バンドはWEAレコーズから契約を解除される。

独立して2枚のシングルをリリースした後、バンドは1993年に解散する。

 

 

1994 年、マッカロクとサージェントは再びElectrafixionという名前で

協力し始めた。

1997 年にパティンソンが2人のもとに復帰したことで、元の「エコー&ザ・

バニーメン」ラインアップの3人のメンバーが再び一緒に仕事をすることに

なった。

3人はElectrafixionとして活動を続けるのではなく、エコー&ザ・バニーメンの

名前を復活させることとなり、バンドは再結成される。

1997年、アルバム『Evergreen』 をリリースし、イギリスでトップ10に達した。

1998年、8thアルバム『What Are You Going to Do with Your Life?』を

リリース。

1999年、レス・パティンソンが母親の世話をするために脱退。マッカロクと

サージェントはエコー&ザ・バニーメンとしてツアーとレコーディングを

続け、繰り返しツアーを行い、アルバム『Flowers』 (2001)、『Siberia』

(2005)、『The Fountain』(2009)、 『Meteorites』(2014年)をリリースした。

2002年、バンドは新世代のミュージシャン、歌、音楽愛好家全般」に

インスピレーションを与えてきたとして。Qインスピレーション賞を受賞した。

 

 

Echo and the Bunnymen – The Killing Moon

 

Echo and the Bunnymen – Bring on The Dancing Horses

 

Echo & The Bunnymen – Lips Like Sugar

 

 

 

 

 

The Psychedelic Furs

The Psychedelic Furs(ザ・サイケデリック・ファーズ)は、イギリスの

ポストパンクバンド。ヴォーカルのリチャード・バトラーと、

ベースのティム・バトラーの兄弟を中心とする6人組。

1980年にセルフタイトルアルバム『The Psychedelic Furs』でデビュー。

ロックバンドには珍しいサックス奏者をフィーチャーしたメンバー編成で、

サイケデリック・ロックからアート・ロック、ニュー・ウェイヴ、

ハードロックまでを内包したサウンドを聴かせた。

映画『Pretty In Pink』(邦題:プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角)は、

1981年のアルバム『Talk Talk Talk』に収録されている『Pretty In Pink』に

インスパイアされて作られた。

劇中のサウンドトラックには84年に再録されたバージョンが使用されている。

リチャードとティムは解散後の1992年、ラヴ・スピット・ラヴというバンドを

結成し、2枚のアルバムを発表する。

2001年にバンドは再結成し、世界各地で精力的にツアーを続けている。

 

 

The Psychedelic Furs – Sister Europe

 

The Psychedelic Furs – Love My Way

 

The Psychedelic Furs – The Ghost in You

 

The Psychedelic Furs – Heartbreak Beat

 

 

 

 

Public Image Limited

Public Image Ltd(パブリック・イメージ・リミテッド)は、

ジョン・ライドンが1978年に結成したイギリスのロックバンド。

略称はPIL。

1978年、セックス・ピストルズを脱退したジョン・ライドンが、

レゲエの本場ジャマイカで3週間の休暇を過ごしたのち、

レゲエ好きの友人ジャー・ウォブルと、ザ・クラッシュの

元ギタリストのキース・レヴィンに声を掛けバンドを結成。

ドラマーのジム・ウォーカーはオーディションによって雇われた。

1978年12月、ヴァージンからデビューアルバム

『Public Image: First Issue』をリリース。

1979年11月、2ndアルバム『Metal Box』をリリース。

既にドラマーのジム・ウォーカーは制作開始時には在籍しておらず、

ドラムはデービッド・ハンフリー、リチャード・デュダンスキー、

ジャー・ウォブル、キース・レヴィン、マーティン・アトキンスに

よって演奏された。

このアルバムはヒットチャートの上位にランクインし、音楽的な

ユニークさからも彼らの代表作とされている。

発表直後、ウォブルが意見の相違のためバンドを脱退。

彼の最初のソロ・アルバムは『Metal Box』の音源を無断流用した

ものだった。またマーティン・アトキンスも一旦解雇となる。

 

1981年4月、メンバーはマーティン・アトキンスを呼び戻し、

3rdアルバム『The Flowers of Romance』をリリース。

長いブランクを挟み、ジョン・ライドンとキース・レヴィンは

『Commercial Zone』を録音。しかしリリース直前に意見の相違により

キース・レヴィンが脱退。キース・レヴィンは自主制作盤として

この録音を発表。1984年、バンドはその別バージョンといえる

『This Is What You Want… This Is What You Get』をリリース。

その後、PILはライドン中心の流動的なプロジェクトとなり、

1986年、5thアルバム『Album』をリリース。

1987年、アルバム『Happy?』以降はパーマネントなバンド編成となり、

1989年には『9』をリリース。

1992年、8th『That What Is Not』を最後に活動を休止。

2009年12月のイギリス・ミニツアーで活動を再開した。

2012年、『This Is PiL』をリリース。20年間アルバムをリリース

しなかったことについて「自分の意志でそうしたわけではない」

「レコード会社との契約が邪魔して取りかかれなかった。待って

タイミングを計るしかなかったんだ」と発言している。

 

 

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The Clash

The Clash(ザ・クラッシュ)はイギリスのロックバンド。

1976年に結成され、パンク・ロックの原型を築き上げた。

彼らの曲は、社会的崩壊、失業、人種差別、警察の残虐行為、政治的、

社会的抑圧、そして軍国主義を糾弾した。

セックス・ピストルズ、ダムドと並ぶ著名なパンク・バンドだった。

また、アメリカでも成功したパンクバンドの一つである。

1stアルバムは典型的なパンクとレゲエのパンク・バンドだったが、

3rdアルバム『London Calling』では新しいサウンドを確立、

パンク・シーンに影響を与えた。また、ステージ上での激しい

パフォーマンスも評判となった。

1982年ごろから徐々にダブ、ラテン音楽、スカ、カリプソといった

第三世界の音楽要素を取り入れるようになった。

「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」に

おいて第28位。

 

1975年、ミック・ジョーンズはプロトパンク・バンドLONDON SSで

ギタリストとして活動していた。マネージャーはのちにクラッシュの

マネージャーになるバーニー・ローズであった。LONDON SSの

ヴォーカリストのオーディションにポール・シムノンが参加し、

ジョーンズと知り合う。

一方、ジョー・ストラマーはパブロック・バンド“101’ers”の

ヴォーカリストとして活動していた。

1976年初めにLONDON SSが解散した後の2月、ジョーンズはセックス・

ピストルズのパフォーマンスを初めて見て、セックス・ピストルズと

同じ方向性を目指すことを決意。ジョーンズのマネージャーを続けていた

ローズの扇動で3月にポール・シムノンに連絡を取り、ジョーンズが計画

していた新しいバンドに参加できるように楽器を学ぶことを提案した。

ジョーンズ、ベースのシムノン、ギターのキース・レヴィーン、そして

ジョーンズと地元の音楽シーンを通じて知り合ったテリー・チャイムズに

新しいバンドのドラマーとしてオーディションを受けるよう声をかける。

バンドはまだリードシンガーを探しており、ほどなくして“101’ers”の

ジョー・ストラマーのパフォーマンスを見て感銘を受けたジョーンズと

レヴィーンは、終演後にストラマーを呼び出し、自分たちのバンドに

参加しないかと打診する。

切り替えを行う準備ができていたストラマーが参加することを決断し、

クラッシュが誕生することとなる。

同年7月4日、セックス・ピストルズと共にシェフィールドのブラック・

スワンで初ライヴを行う。1977年1月25日、CBSレコードと契約する。

尚、契約当時には既にギターのキース・レヴィンは解雇、ドラムの

テリー・チャイムズは脱退しており、契約後に正式メンバーとして

ドラムのトッパー・ヒードンが加入する。初期は金銭面でのやりくりに

苦労したという。

 

1977年1月25日、バンドはCBS レコードと 10 万ポンドで契約を締結。

テリー・チャイムズはレコーディングのために呼び戻された。

バンドのファーストシングル『White Riot』は同年3月にリリースされ、

34位に達した。翌月、1stアルバム『The Clash』をリリース。

支配体制、支配者、警察、疎外、退屈に対して激怒した燃えるような

パンクトラックでいっぱいの『The Clash』はイギリスで12位に達し、

ゴールドに認定された。アメリカでは1979年、2回目のリリースとなった。

アメリカのヴァージョンには大幅に異なるトラックリストも含まれており、

トラックの順序が変更され、その間にレコーディングされたトラックが

いくつか置き換えられた。『Deny』、『Cheat』、『Protex Blue』、

『48 Hours』、『White Riot』(オリジナル・ヴァージョン)が除外され、

『Clash City Rockers』、『Complete Control』、『White Riot

(再録音ヴァージョン)、『(White Man) In Hammersmith Palais』、

『I Fought the Law』、『Jail Guitar Doors』が追加された。

『The Clash』はビルボードチャートで126位に達し、『London Calling』の

アメリカでの商業的成功への足掛かりとなった。

その後、クラッシュは音楽性の幅を広げ、他のパンクバンドとは

一線を画した作品をリリースすることになる。

3rdアルバムで2枚組の『London Calling』ではアメリカでも知られる

ようになり、今までパンクをこき下ろしてきたイギリスの音楽批評誌にも

評価されることとなる。アルバムには3つのシングル『London Calling』、

Clampdown』、『Train in Vain』が収録されている。

『Train in Vain』はもともとアルバムのトラックリストに記載されておらず、

アルバムの最後に隠しトラックとして表示された。これは、スリーブが

すでに生産されて、土壇場でトラックがアルバムに追加されたためである。

一部のエディションでは、トラックリストに曲が含まれている。この曲は、

ビルボードトップ30にチャートインした最初のクラッシュの曲であり、2004年、

『Train in Vain』はローリング ストーン誌の選ぶ「史上最も偉大な500曲」で

298位にランク付けされた。

1980年、4thアルバムで3枚組の『Sandinista!』をリリース。イギリスだけ

ではなくアメリカでも注目された。

 

1982年、5thアルバム『Combat Rock』をリリース。イギリスでは2位に

チャートインし23週とどまった。アメリカでは7位に達し、トッパー・

ヒードンの作曲による『Rock the Casbah』はMTVの定番となった。

『Combat Rock』以前のアルバムのように、ファンクとレゲエの影響を

継続したが、一部のクラッシュファンを遠ざけた。

アルバムのレコーディングとプロデュースのプロセスに苦労し、

ミック・ジョーンズとジョー・ストラマーの間で緊張が起こった。

バンドはミック・ジョーンズによるアルバムの制作プロセスに納得せず、

よりラジオ向けになるようグリン・ジョンズにプロデュースを依頼。

『Combat Rock』はバンドのベストセラー・アルバムとなり、アメリカでは

ダブル・プラチナに認定され、イギリスではゴールドに認定された。

ヒットシングル『Rock the Casbah』と『Should I Stay or Should I Go』が

含まれたアルバムはアメリカで大成功を収め、バンドが悲願していた

アメリカでのブレイクを果たした。

しかし、ヒードンのヘロイン中毒は悪化し『Combat Rock』のリリースの

数日前に解雇され、ミック・ジョーンズは1983年のCombat Rockツアー

終了後に解雇された。

ストラマーとシムノンは新メンバー3人を迎えた新体制で再出発を図るが、

1985年にリリースしたアルバム『Cut the Crap』は不評で結局バンドは

解散する。

 

2002年11月に、ロックの殿堂入りが発表された。新たに殿堂入りした

ミュージシャンは授賞式で数曲演奏するのが慣例であり、クラッシュも

ストラマー、ジョーンズ、シムノン、ヒードンの4人で再結成することが

検討されたが、シムノンが「チケットが2,500ドルもするような、

普通のファンが来られない場所で再結成するのは嫌だ」と拒否。

シムノンには代理を立てる方向で調整が進められていたが、その矢先、

ストラマーが2002年12月22日、サマセット州ブルームフィールドの自宅で

心臓発作により死去。

結局、再結成は実現しなかったが、残されたメンバーは「再結成しなくて

良かった」と後に語っている。 翌年3月の授賞式には、ジョーンズと

シムノン、テリー・チャイムズが出席した。

 

 

ジョー・ストラマー(ジョン・グラハム・メラー 1952年8月21日 –

2002年12月22日) は、トルコのアンカラで、スコットランド人の母親と

イギリス人の父親の間に生まれた。ストラマーには父親を通じて、

アルメニア人の曽祖父とドイツのユダヤ人である曽祖母がいた。

9歳のとき、ストラマーと10歳の兄のデイビッドはサリー州の

シティ・オブ・ロンドン・フリーメンズ・スクールに入学し、その後

7年間、両親に会うことはめったになかった。

ストラマーは、リトル・リチャード、ビーチ・ボーイズ、ウッディ・

ガスリーのレコードを聴いてロック・ミュージックへ傾倒していった

数年間、彼は「ウッディ」というあだ名で呼ばれていた。

1970年に卒業した後、ストラマーはロンドンのセントラルスクール・

オブ・アート・アンド・デザインに移り、そこでプロの漫画家に

なることを単純に考え、1年間の基礎コースを修了した。この間、彼は

友人のクライヴ・ティンパーリーやタイモン・ドッグとパーマーズ・

グリーンのアパートを共有した。

1973年、彼は南ウェールズのニューポートに引っ越しした。

ニューポート芸術大学で勉強しなかったが、ストウヒルの学生組合で

大学のミュージシャンと出会い、バンドの名前をThe Vulturesに

変更する前にフレーミングユースのヴォーカリストになった。

翌年、ストラマーはバンドのパートタイムのヴォーカリスト兼

リズムギタリストとなる。

この間、彼はセント・ウーロス墓地で墓掘り人としても働いていた。

1974年、バンドは解散し、ストラマーはロンドンに戻り、そこでドッグと

再会した。彼はしばらく大道芸人だったが、ルームメイトと別のバンド

101ersを結成することを決めた。バンドはロンドンのパブで多くのギグを

行い、人気のあるアメリカのR&Bやブルースのカヴァーを演奏した。

この期間中、ストラマーは「ギターのお金を稼ぐために」ハイドパークで

庭師としての労働を含む、いくつかの臨時の仕事をしたと後日語っている。

1975年、彼はウッディ・メラーと名乗るのをやめ、ジョー・ストラマーに

芸名を変更。姓の「ストラマー」は、ギターを「かき鳴らす」リズム・

ギタリストしての自分自身へ自虐的な意味を込めたことに言及している。

1976年4月3日、当時無名だったセックス ピストルズがロンドンの

ナッシュビル・ルームズと呼ばれる会場で101ersのオープニング・アクトと

して出演し、ストラマーは彼らに感銘を受ける。ショーの後しばらくして、

ストラマーはバーニー・ローズとミック・ジョーンズから連絡を受けた。

ジョーンズはLONDON SSの出身で、ストラマーがリードシンガーとして

参加することを望んでいた。

ストラマーは101ersを脱退し、ジョーンズ、ベーシストのポール・シムノン、

ドラマーのテリー・チャイムズ、ギタリストのキース・レヴィーンの

バンドメンバーなることに同意した。バンド名はシムノンによってクラッシュと

名付けられ、1976年7月4日にシェフィールドでセックス・ピストルズの

オープニングアクトとしてデビューする。

1977年1月25日、レヴィーンがバンドから解雇され、チャイムズが脱退した後、

バンドはCBSレコードとスリーピースとして契約を締結した。

トッパー・ヒードンは後に加入、バンドのフルタイムのドラマーとなった。

バンドは当初、ステージ外での騒々しい、ふざけた態度で悪名を馳せた。

1977年6月10日、ストラマーとヒードンは、ホテルの壁にバンドの名前を

スプレーで描いたとして逮捕された。

1980年5月20日には、ドイツのハンブルグでの公演中に聴衆の1人をギターで

殴ったとして逮捕された。この事件は、彼にとって重要な転機となった。

ストラマーは「それが当時の流れでした。暴力が私を支配していたのは本当に

その一度だけでした」と語り、以降、真っ当な人間になり、二度と暴力を

ふるうことはしないと決意した。

 

1982年、アルバム『Combat Rock』がリリースされる前にストラマーが姿を消し、

バンドのマネージメントは彼が「失踪した」と公表した。

バンドのマネージャーであるバーニー・ローズは、話題作りのためストラマーに

そうするように圧力をかけた。

ローズの決定に不安を感じたストラマーは本当に姿を消し、フランスで

「ダラダラして過ごす」ことにした。この間、ストラマーは1982年4月のパリ

マラソンを走った。この期間、彼の所在は一般の人々だけでなく、バ​​ンドの

マネージメントにとっても謎であった。彼は後に「これは大きな間違いであり、

後悔に苛まれた」と、シングル『Rock the Casbah』の成功にもかかわらず、

手放して喜べなかったと述べた。この間、バンドメンバー内の緊張が高まり、

議論が絶えなかった。やがてバンドは崩壊し始めた。

1983年9月、ストラマーはミック・ジョーンズがバンドを去ることに関する

“Clash Communique”を発行し、ジョーンズを解雇した。

トッパー・ヒードンは直前にヘロイン中毒のためにバンドから解雇されており、

テリー・チャイムズは、恒久的な後任のピート・ハワードが見つかるまで

一時的に呼び戻された。

これにより、バンドにはオリジナルメンバーのストラマーとシムノンの2人

だけが残った。ローズはストラマーに続行するよう説得し、2人の新しい

ギタリストを追加した。このラインアップの下で、1985年にアルバム

『Cut the Crap』をリリースした。このアルバムはファンと批評家の両方から

酷評され、ストラマーはクラッシュを解散した。

 

1年後の1986年、彼はアメリカ映画『Sid and Nancy』のために『Love Kills』

と『Dum Dum Club』を含むいくつかの曲に取り組んだ。

ストラマーは後にミック・ジョーンズと彼のバンドBig Audio Dynamiteと

協力し、バンドの2ndアルバム『No. 10, Upping St.』 (1986) に貢献し、

ほとんどの曲を共作し、ジョーンズと共にアルバムをプロデュースした。

彼は再びジョーンズと共に活動し、1987年にはアレックス・コックス監督の

映画『Walker』に「フォーセット」という名前のキャラクターとして出演した。

映画のサウンドトラックにも楽曲を提供。同年に公開された映画

『Straight to Hell』にも出演している。

1987年秋から1988年にかけては、ギタリストとしてザ・ポーグスのツアーに

参加(病気のフィリップ・シェヴロンの代役)。

1989年にはジム・ジャームッシュ監督の映画『ミステリー・トレイン』に

脇役として出演。1990年にはアキ・カウリスマキ監督作品

『I Hired a Contract Killer』にも出演を果たし、作中ではパブで

演奏をするギタリストとして、ザ・ポーグスから提供された2曲を歌って

いる。この時期、彼は映画での仕事を主に行っており、俳優としての仕事

のみならず、上記以外の複数の映画への楽曲提供を行っている。

1989年、バンドThe Latino Rockabilly Warと共にソロ・アルバムの

作成に取り掛かるが、その後リリースしたアルバム『Earthquake Weather』は

商業的に失敗に終わり、ソニー・レコードとの契約を失う結果となる。

彼はまた、このバンドで 映画『Permanent Record』のサウンドトラックも

担当した。

1990年にはザ・ポーグスのアルバム『Hell’s Ditch』のプロデューサーをつとめ、

1991年、シェイン・マガウアンがバンドを離れた後、マガウアンに代わって

ザ・ポーグスのシンガーとしてツアーに参加した。

1994年4月16日には、チェコ系アメリカ人のバンドDirty Picturesと共に

プラハで開催されたボスニアでの戦争で避難を余儀なくされた人々のための

チャリティーライヴに出演。このライブでは再びクラッシュ時代の楽曲を

披露している。

彼自身はクラッシュ解散からこの時期までを、「荒野の数年間」

(The wilderness years)と評しており、クラッシュ解散以後、ストラマーは

他のバンドと協力し始めた。

1995年にはレヴェラーズの『Just the One』でピアノを弾き、1996 年には

Black Grapeのシングル『England’s Irie』に出演した。

 

1990年代半ば、彼は一流のミュージシャンを集めてバックバンド

The Mescalerosを結成し、ストラマーとバンドはマーキュリー・レコードと

契約する。1999年には1stアルバム『Rock Art and the X-Ray Style』を

リリースし、イギリスと北アメリカでライヴツアーを行った。

2001年、バンドはカリフォルニアのパンクレーベルHellcat Recordsと契約し、

2ndアルバム『Global a Go-Go』をリリース。北アメリカ、イギリス、

アイルランドでツアーを行う。

2002年11月15日、ロンドン西部のアクトン・タウンでストライキ中の

ロンドン消防組合のためにチャリティーライヴを行う。この日のライヴの

聴衆の中には、かつてのクラッシュのギタリスト、ミック・ジョーンズが

いた。ライヴの途中、ジョーンズはステージへと上がり、ストラマーと

共にクラッシュ時代の曲『Bankrobber』を演奏。アンコールではさらに

『White Riot』と『London’s Burning』を演奏し、1983年以来初めて、

ストラマーとジョーンズが同じステージでのパフォーマンスを実現した

ライヴとなった。

2002年11月22日には最後となるライヴをリバプールで行う。

この頃、彼はU2のボノと共にネルソン・マンデラが主催するアフリカでの

エイズ撲滅運動のために共同作曲を行っており、2003年2月にはロベン島で

チャリティーライヴを行う予定であった。

しかし、同年の12月22日、ストラマーは犬の散歩から戻ったばかりの、

サマセット州ブルームフィールドの自宅にて50歳で亡くなった。

当初の発表では死因は心臓発作とされたが、解剖の結果、未診断の

先天性の心臓疾患で死亡したことが明らかになった。

バンドのメンバーであったポール・シムノンとミック・ジョーンズによれば、

トッパー・ヒードンを加えた4人でクラッシュがロックの殿堂入り授賞式で

再結成することを検討している最中であったという。また、彼自身は、

3rdアルバム『Streetcore』を制作中であった。このアルバムには、

ジョニー・キャッシュへのオマージュである『Long Shadow』が収録

されている。

亡くなる前の晩には、クラッシュの殿堂入りに合わせてリリースされた

ベスト・アルバム『The Essential Clash』の収録曲を選ぶ作業を

していた。

 

ジャーナリスト、政治活動家のCaroline Coonは、

「ステージ上でのストラマーは、汗まみれで震える体を非人間的な発電機に

自分自身を配線して巻き込み、いつ救急隊が拘束衣を持って彼の救助に

駆けつけるのだろうかと思うほど恐ろしい。

開いた傷に顔を歪めるように、彼は頑固なまでに、

テレキャスターをチェーンソーのように振り回します。

彼の人を引き付ける力は完全に独創的で、従来のロックンロールの

どのステージでも見たことのない、記録破りのリフトにすべての

エネルギーを爆発させるオリンピックの強者のようです。

ステージを降りた彼は、クラッシュのどのメンバーよりも控えめである」と

述べている。

 

The Clash – I Fought the Law

 

The Clash – Tommy Gun

 

The Clash – London Calling

 

The Clash – Rock the Casbah

 

 

 

 

 

 

The Stranglers

The Stranglers(ストラングラーズ)は、イギリスのロックバンド。

1974年、スウェーデンで生物学の研究のかたわら「Johnny Sox」という

バンドで活動をしていたHugh Cornwell(ヒュー・コーンウェル G,Vo)は、

イギリスに戻りJean-Jacques Burnel(ジャン=ジャック・バーネル Vo,B)、

Jet Black(ジェット・ブラック、本名:Brian John Duffy Ds)、

Dave Greenfield (デイヴ・グリーンフィールド Key)とともにバンドを

結成。コーンウェルはバンドを結成する前はブルースミュージシャンであり、

リチャード・トンプソンのバンドメイトであった。

バーネルは交響楽団で演奏したクラシックギタリストであった。

ブラックの音楽的背景はジャズドラマーとしてのものであった。

デイヴ・グリーンフィールドはドイツの軍事基地で演奏していた。

もともとギルフォード・ストラングラーズと名付けられていたが、最終的に

ストラングラーズと名付けられた。

彼らの初期の影響には、ドアーズ、The Music Machineなど、パンク以前の

ムーヴメント、サイケデリック・ロックのバンドが含まれていた。

 

1976年より、バンドはラモーンズ、パティ・スミスなど、アメリカのパンク・

バンドの最初のイギリスツアーのオープニングアクトとして出演するなど、

急成長中のパンクロック・ムーヴメントに関連付けられるようになった。

このような連想にもかかわらず、イギリスの音楽プレスのムーヴメントの

擁護者の何人かは、バンドメンバーの年齢と音楽の妙技、いくつかの歌詞の

知的傾向のために、彼らを疑いの目で見ていた。

バンドの初期のアルバム『Rattus Norvegicus』、『No More Heroes』、

『Black and White』はすべて13か月以内にリリースされ、『Peaches』、

Something Better Change』、『No More Heroes』は瞬く間にパンクの名曲と

なった。

1978年2月、ストラングラーズはミニツアーを開始し、バンドが成功を収める

までの間、サポートしてくれた会場とその持ち主に感謝の意を表して、3つの

シークレット・ギグを行った。最初はバレンタインデーにニュー・バーネットの

ランカスター公爵で演奏。さらに9月初旬にはハマースミスのThe Red Cowと、

ウェスト・ケンジントンのThe Nashville Roomsで演奏した。

 

1970年代後半、バンドは日本を2回ツアーし、京都を拠点とするバンド、村八分の

パンク・サウンドから進化していた東京のオルタナティヴ・ミュージックシーンに

かかわる。

1977年から1979年にかけて、六本木のS-KENスタジオ、および新宿と下北沢の

ロフトに焦点を当てた日本のランドマークシーンに参加した唯一の外国人バンドで

あった。

彼らは、バンドがLIZARDとして知られるようになったバンド、紅蜥蜴

(1972年から1978年にかけて活動した日本のロックバンド)と友達になり、

ロンドンに招待した。

1979年、まだ日本にいる間、バーネルはARB(元の名前は「アレキサンダー・

ラグタイム・バンド」で、1981年にARBが正式名称となった)の創設者の一人、

KEITH(Ds)とも親しくなった。

1983年の終わりにARBのベーシストが逮捕され、バンドは次のツアーに問題を抱えた。

親友の一大事を聞きつけたバーネルは急遽日本に飛び、ARBに参加してツアーを

カヴァーし、日比谷公園で開催されたJAPAN ROCK FESTIVAL’84に出演、

外国人として初めてこのフェスティバルに出演した。バーネルはARBで5週間

ツアーを行い『Yellow Blood』と『Fight it Out』の2つのスタジオ・トラックで

演奏し、どちらもRCAビクターARBのアルバム『Yellow Blood』に収録された。

 

1979年、ストラングラーズの2人のマネージャーの1人が、バンドが方向性を

失ったと感じたため、解散するようアドバイスしたが、この考えは却下され、

彼らはマネージメントと決別した。

一方、バーネルは小規模のイギリスツアーに裏打ちされた実験的なソロアルバム

『Euroman Cometh』をリリースし、コーンウェルはロバート・ウィリアムズと

共同でアルバム『Nosferatu』をレコーディングした。その年の後半、バンドは

『The Raven』をリリース。これは、シングル市場よりもアルバムにアピール

する、よりメロディックで複雑なサウンドへの移行を告げるものであった。

『The Raven』の曲は音楽的にも複雑で多様で、バイキングなどの主題を扱っている。

その孤独な航海、ヘロイン中毒、遺伝子工学、イランとオーストラリアでの現代の

政治的出来事、そして地球外からの訪問者『Meninblack』。

『The Raven』では、バンドのサウンドに明確な変化が見られた。前の3枚の

アルバムで非常に目立っていたHohner Cembaletは削除され 、代わりに

オーバーハイムのシンセサイザーが使用され『Don’t Bring Harry』では

アコースティックピアノが使用された。トラック『Meninblack』でバーネルの

ヴォーカルを処理するためにハーモナイザーが使用された。その録音により、

前のアルバムをプロデュースしたマーティン・ラシェントがバンドを離れ、

アラン・ウィンスタンリーと共同でアルバムをプロデュースした。

 

ストラングラーズの前の4つのアルバムの成功に続いて、彼らは次のアルバムの

完全な自由を与えられた。

5thアルバム『The Gospel According to the Meninblack』は、宗教と現象、

地球外からの訪問者との間の想定される関係を探求するコンセプト・アルバムで

ある。

アルバムには登場しなかったシングル『Who Wants the World』が先行リリースされ

トップ40入りした。

バンドは別のコンセプト・アルバムである『La Folie』 (1981) で商業的および

重要な地位を回復し、今回は愛のテーマを探求した。最初『La Folie』は

ストラングラーズの他のどのスタジオ・アルバムよりもチャートは低く、そこから

リリースされた最初のシングル『Let Me Introduce You to the Family』は42位に

とどまった。

しかし、次のシングル『Golden Brown』はイギリスのシングルチャートで2位に

達した。

コーンウェルは「歌詞はヘロインについてであり、女の子についてでもあります。

彼女は地中海出身で、肌は黄金色でした」と述べた。この曲は彼らの最大のヒットと

なり、多くのアーティストによってレコーディングされている。

この成功に続いて『La Folie』はイギリスのアルバムチャートで11位にチャートイン。

その後まもなくストラングラーズはEMIとの契約を解除。契約解除の一環として、

バンドは『The Collection 1977–1982』のリリースを余儀なくされた。

トラックリストには、74年にデモで録音され、EMIによって拒否された新しいシングル

『Strange Little Girl』が含まれており、1982年7月のチャートで7位に達した。

 

1990年に、バンドとしての方向性に限界を感じたコーンウェルが、10thアルバム

『10』を最後に脱退。新たにジョン・エリスとポール・ロバーツがメンバーとして

加入し『Stranglers in the Night』 (1992年)、『About Time』(1995年)、

『Written in Red』 (1997年)、『Coup de Grace』 (1998年)という4枚のアルバムを

リリース。

2000年、ジョン・エリスが脱退。新たにバズ・ウォーンが加入。

2004年、6年ぶりのアルバム『Norfolk Coast』をリリース。

2006年、ポール・ロバーツが脱退。

2007年、ジェット・ブラックが心房細動を患っていることが明らかになる。

長時間の移動が必要な場所での演奏では、代役にイアン・バーナードを起用。

2012年、アルバム『ジャイアンツ』を発表。

2015年、年齢的事情により、ジェット・ブラックが事実上の降板。

 

 

ストラングラーズは、50 年にわたるキャリアの中で、イギリスで23のトップ40

シングルと、19のトップ40アルバムを記録しており、イギリスのパンクバンドの中で

最も長く存続しているバンドの1つである。

 

 

The Stranglers – No More Heroes

 

The Stranglers – Golden Brown

 

The Stranglers – Skin Deep

 

The Stranglers – Always The Sun