80s New Wave / Sophisti-pop

 

 

 

今回は80年代にイギリスで活動した

ソフィスティ・ポップのバンド、

アーティストを紹介します。

 

ポップミュージックのサブジャンル。

この用語はジャズ、ソウル、ポップの要素を取り入れた、

イギリスで1980年代中頃に出てきた音楽に適用された。

傾向としてはキーボード、シンセサイザーを多用し、

特にホルン(金管楽器の一種)を生かしたスタイルで、

整然として洗練された音が特徴。

 

 

 


 

 

Sade

Sade(シャーデー、英語発音はシャーデイ)は、イギリスのバンド。

リードシンガー、シャーデー・アデュにちなんで名付けられた。

メンバーのうち3人はイースト・ライディング・オブ・ヨークシャーの

出身であった。

彼らはソウルミュージック、クワイエット・ストーム、スムースジャズ、

ジャズの要素を取り入れたソフィスティ・ポップのバンドと

認識されている。

1984年、デビューアルバム『Diamond Life』をリリース。アルバム

から『Your Love Is King』、『When Am I Going to Make a Living』、

『Smooth Operator』、『Hang On to Your Love』のシングルが

リリースされた。『Diamond Life』はUKアルバムチャートの2位に

達し、1985年、ブリット・アワードの最優秀ブリティッシュ・

アルバム賞に輝いた。

1985年、アルバム『Promise』をリリース。『The Sweetest Taboo』、

『Is It A Crime』、『Never As Good As The First Time』のシングルが

ヒットした。アルバムはイギリスとアメリカで1位を記録し、

イギリスではダブルプラチナ、アメリカでクワドラプル・プラチナに

認定された。

1986年、バンドはグラミー賞の最優秀新人賞に輝いた。

1988年、アメリカのレーベルEpic Recordsよりアルバム『Stronger

Than Pride』をリリース。タイトルトラック『Stronger Than Pride』、

『Paradise』、『Nothing Can Come Between Us』がシングルとして

リリースされた。『Paradise』はビルボードホット100で16位を記録

した。アルバムはイギリスで3位、アメリカのビルボード200では7位

に達した。

1994年からはシャーデー・アデュを除くメンバー3人がSweetbackと

いう名前で活動を始める。

 

 

2000年、アルバム『Lovers Rock』は、グラミー賞 最優秀ポップ・

ヴォーカル・アルバム賞に輝いた。

2010年に約9年ぶりとなるアルバム『Soldier of Love』をリリース。

当初のジャズやソウルの系統のサウンドから『Lovers Rock』以降は

ブルースやフォークの影響を感じさせるギター中心のサウンドに

変化している。2009年12月にタイトルトラック『Soldier of Love』が

先行シングルとしてリリースされた。

アルバムはイギリスでは4位、アメリカでは1位を記録した。

2011年、バンドはグラミー賞の最優秀リズム・アンド・ブルース・

パフォーマンス賞ヴォーカル入りデュオまたはグループ部門を受賞。

バンドのアメリカでのセールスはRecord Industry Association of America

(RIAA)によるとこれまでのところ2350万枚であり、VH1の100 Greatest

Artists Of All Timeで50位にランクインした。

バンドはこれまで世界中で7,500万枚を超えるレコード・CDのセールスを

記録している。

 

 

Sade – Smooth Operator

 

Sade – Cherry Pie

 

Sade – The Sweetest Taboo

 

Sade – Nothing Can Come Between Us

 

 

 

 

 

 

Swing Out Sister

Swing Out Sister(スウィング・アウト・シスター)は、イギリスの

クロスオーバー、ポップロックのデュオ。

1985年、イングランド マンチェスターで結成された。

当初はキーボードのAndy Connell(アンディ・コーネル)、

ドラムのMartin Jackson(マーティン・ジャクソン)、ヴォーカルの

Corinne Drewery(コリーン・ドリュリー)のトリオであったが、

現在はアンディ・コーネル、コリーン・ドリュリーのデュオと

なっている。

コリーン・ドリュリーはバンドのリード・シンガーになる前は

ファッションデザイナーでモデルであった。

バンドの名前は、1945年のアーサー・トリーチャー主演映画

『Swing Out,Sister』から取られている。

1985年11月、マーキュリー・レコードと契約を締結したバンドは

ポール・スティブリー・オードフィーをプロデューサーに迎え

デビューアルバム『It’s Better To Travel』の制作を始める。

イギリスでリリースされたデビュー・シングル『Blue Mood』は

チャートインしなかったが、1986年末にリリースした2ndシングル

『Breakout』はUKチャート4位、アメリカのビルボードホット100

では6位、アダルト・コンテンポラリー・チャートで1位に達した

続くジョン・サーケルのトランペットソロが使われた3rdシングル

『Surrender』はUKチャート7位、落ち着いたジャズ調の4thシングル

『Twilight World』は多くのミュージシャンの手でリミックスされ

ダンスナンバーともなった。

1987年5月にイギリスでデビューアルバム『It’s Better To Travel』を

リリース。UKチャート1位に輝いた。

アルバムには、サーケルとともにレベル42との共演で知られるゲイリー・

バーナクル(サクソフォーン)、エイジアとのセッションにも加わった

ルイス・ジャーディム(パーカッション)、ティム・キャンスフィールド

(ギター)、ジェリー・ヘイ(トランペット、フリューゲルホルン)

らも参加した。

後に、このアルバムからは『Breakout』のような陽気なポップ調の

『Fooled By a Smile』がシングルとしてリリースされた。

1988年、バンドは『Breakout』でグラミー賞最優秀新人賞とグループや

デュオによる最優秀ポップ・ヴォーカル賞にノミネートされた。

1989年、アルバム『Kaleidoscope World』をリリース。シングルとして

『You On My Mind』、『Where in the World』、『Waiting Game』

(北アメリカのみリリース)、『Forever Blue』がリリースされた。

アルバムはUKチャートで9位に達した。このアルバムをレコーディング中

にドラマーのマーティン・ジャクソンが脱退する。

 

 

1992年、アンディ・コーネル、コリーン・ドリュリーのデュオとなった

スウィング・アウト・シスターは3rdアルバムとなる

『Get Your Touch with Yourself』をリリース。

このアルバムは1960年代から70年代から影響を受けたジャズ、ポップ、

ダンスミュージック、ソウルとファンクのさわやかな『Am I the same girl

(Barbara Acklinの1969年のヒット曲のカヴァー)などで構成されている

(『Am I the same girl』は1968年にアメリカのソウルシンガーBarbara

AcklinがCarl Davisのプロデュースのもとレコーディングした曲だったが、

Carl Davisは直後に歌声だけ削除しYoung-Holt Unlimitedによるピアノ・ソロ

に置き換えたバージョン『Soulful Strut』を1968年11月にリリースしヒット

させた。Barbara Acklinの『Am I the same girl』は1969年2月にリリース

された。

またイギリスのシンガーDusty Springfieldが1969年9月に『Am I the same girl』

をリリース。イギリスで43位、オーストラリアで75位とマイナーヒットと

なった)。

 

 

1994年、アルバム『The Living Return』をリリース。シングルとして Delfonicsの

カヴァー『La-La (Means I Love You)』がリリースされ、イギリスで43位、

日本のオリコンチャートで14位に達した。また、アメリカではビルボードの

アダルト・コンテンポラリー・チャートで1位となった。

1996年、Mercuryより日本に向けリリースされた初のベストアルバム

『The Best of Swing Out Sister(邦題:あなたにいてほしい~ベスト・オブ・

スウィング・アウト・シスター)』に収録の『Now You’re Not Here』は、

日本のテレビドラマ「真昼の月」のためにConnell、Dreweryと、

プロデューサーのPaul O’Duffyが書き下ろした曲で、オープニングテーマとして

使用された。

また、この曲はオリコン洋楽シングルチャートで1位となり11週連続1位をキープ。

日本で約50万枚の大ヒットを記録した。

1997年には第11回日本ゴールドディスク大賞洋楽部門のグランプリ・シングル賞を

受賞した。

1997年、Paul O’Duffyのプロデュースによるアルバム『Shapes and Patterns』を

リリース。Laura Nyroの『Stoned Soul Picnic』のカヴァーや、前作のアルバム

からリミックスした『Better Make It Better』、『Now You’re Not Here』、

『Somewhere in the World』、『You Already Know』、『Icy Cold as Winter』を

収録。ロンドンと東京でレコーディングされたこのアルバムには屋敷豪太が

ドラマーとして参加しており、日本人ミュージシャンが彼らのアルバム制作に

携わるようになる最初の例となった。

1999年、アルバム『Filth and Dreams』をリリース。

 

 

2000年以降も『Somewhere Deep in the Night』(2001年)、

『Where Our Love Grows 』(2004年)、『Beautiful Mess 』(2008年)と

コンスタントにアルバムをリリース。

2008年から2009年、バンドはツアーに戻りインドネシア、フィリピン、

日本といったアジア諸国をツアーした。

 

 

Swing Out Sister – Breakout

 

Swing Out Sister – You On My Mind

 

Swing Out Sister – Waiting Game

 

Swing Out Sister – Forever Blue

 

 

 

 

 

 

Basia

Basia(バーシア、本名:Barbara Trzetrzelewska、1954年9月30日 – )

は、ポーランド出身のシンガー、ソングライター、音楽プロデューサー。

イギリスを中心に活動している。

ヨーロッパで1980年代半ばに人気があったイギリスのバンド

Matt Bianco(マット・ビアンコ)のオリジナルメンバー。

 

 

ポーランドのシロンスク県ヤヴォジュノ生まれ。10代のころより地元の

アマチュアロックバンドで音楽活動を開始。カリシュのフェスティバル

などでプレイしていた。

1979年、シカゴのハイドパークに一時的に移動。1981年にロンドンに

移住する。そこでマーク・ライリーと彼の共同制作者、ダニー・ホワイト

(ジャズギタリスト、ピーター・ホワイトの兄弟)と出会う。

3人は1983年にジャズポップグループ、ブロンズとして活動を開始。

後にバンド名前をマット・ビアンコに変更する。デビューアルバム

『Whose side are you on?』はヨーロッパ全体でヒットし、150万枚の

セールスを記録した。アルバムに収録された『Get Out Of Your Lazy Bed』、

『Half A Minute』はUKチャートでトップ30のヒットシングルとなった。

しかし、バーシアとダニー・ホワイトはソロ・キャリアを開始するため

マット・ビアンコを去る。以降、2人は2000年代を通して長期にわたる

音楽制作のパートナーとなる。

1987年、バーシアはデビューアルバム『Time and Tide』をリリース。

アルバムは約200万枚のセールスを記録。アメリカでも大成功を収め、

ビルボード200で36位となり、100万枚のセールスを達成した。

ビルボードホット100でトップ30(26位)となったタイトルトラックの

『Time and Tide』、『Prime Time TV』、『New Day for You』の

シングル・ヒットをもたらした。

1989年、2ndアルバム『London Warsaw New York』をリリース。

アルバムは前作に続きアメリカで200万枚を超えるセールスを記録し

その業績を維持した。

スティーヴィー・ワンダーのカヴァー『Until You Come Back to Me』、

『Baby You’re Mine』を収録。

ビルボードホット100の『Cruising for Bruising』はトップ30(29位)の

ヒットを記録した。バーシアはアメリカ市場で大成功を収めながら、

アジア(主に日本とフィリピン)とヨーロッパ(主にフランス)で人気を

獲得した。

 

 

1991年、インタビューを含む彼女のすべてを映像として収録した初の

長尺のビデオ『A New Day』をリリースした。

1994年、3rdアルバム『The Sweetest Illusion』はフランスのアルバム

チャートで39位、日本のオリコンチャートで6位、ビルボード200で27位に

達した。アルバムから唯一のシングル『Drunk on Love』がリリースされ、

UKシングルチャートで41位、ビルボード・ダンス・クラブ・ソングスの

1位となり、12週間チャートインした。

『The Sweetest Illusion』はアメリカ市場では50万枚を超えるセールスを

記録するが、世界中でのセールスは100万枚にとどまり、前作のような

成功を収めることができなかった。

 

 

1998年、バーシアは世界的なキャリアと多くのファンに支持されながらも

突然音楽業界から姿を消した。彼女の母親と親しい友人の死により、

一時的に創作活動を停止したのが理由であった。

元バンドメイトのダニー・ホワイトとマーク・ライリーはマット・ビアンコの

再結成のため彼女に参加するように促した。

2004年、バーシアは音楽業界に復帰。マット・ビアンコの一時的な再結成に

携わりオリジナルメンバーとしては20年ぶりとなるアルバム『Matt’s Mood』

をリリース。アルバムは批評家から称賛を受けた。

2009年、前作『The Sweetest Illusion』から15年ぶりとなるアルバム

『It That That Girl Again』をリリース。ワールドツアーを行う。

2018年5月、アルバム『Butterflies』をリリース。シングルとして

『Matteo』がリリースされた。

 

 

Basia – Cruising for Bruising

 

Basia – Time and Tide

 

Basia – New Day For You

 

 

 

 

 

 

Aztec Camera

Aztec Camera(アズテック・カメラ)は、スコットランドのポップ、

ニュー・ウェーヴバンド。

1980年、スコットランドのグラスゴーでシンガー、ソングライターの

Roddy Frame(ロディ・フレイム)を中心として結成された。

今までに6枚のアルバムをリリース。1998年からはロディ・フレイムの

ソロ名義で3枚のアルバムをリリースしている。

Oblivious』、『Somewhere in My Heart』、クラッシュのギタリスト、

ミック・ジョーンズとコラボレーションした『Good Morning Britain』で

人気を博した。

 

 

1981年、フレイムが16歳の時、イギリスでバンド初のシングル

『Mattress Of Wire / Lost Outside The Tunnel』をEdwyn Collinsと

Alan Horneの共同設立したインディーズ・レーベルPostcard Recordsより

リリースした。 

同年、2ndシングルとして『We Could Send Letters』をフィーチャーした

『Just Like Gold』をリリース。

2つのシングルリリースに続いて、バンドはデビューアルバムのために

イギリスのRough Trade RecordsとアメリカのSire Recordsと契約を

締結した。

1983年、ロディ・フレイム(Vo, G, harmonica)、Bernie Clarke

(piano, organ)、Campbell Owens(B)、Dave Ruffy(Ds, percussion)

のラインアップでデビューアルバム『High Land, Hard Rain』をリリース。

アルバムはSire Recordsに加え、アメリカのDomino Recording Co. Ltd.、

フランスのWEA、Celluloid Records、スペインのNuevos Medios、

オーストラリアのPowderworks Recordsなど、さまざまな国でリリース

された。John BrandとBernie Clarkeプロデュースによるアルバムは

批評家の称賛を得て、ビルボード200の129位に達した。

後にポップ・ソングを意識した曲『Oblivious』がイギリスのシングル

チャートで18位に達した。

『High Land, Hard Rain』のリリース後Bernie Clarkeがバンドを脱退。

Malcolm Ross(G)に交代する。

バンドはWEAに移籍。1984年、ダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーを

プロデューサーに迎え2ndアルバム『Knife』をリリース。

ヴァン・ヘイレンの『Jump』のアコースティック・ヴァージョンを

フィーチャーしたシングル『All I Need is Everything』はUKシングル

チャートで34 位に達し、6週間チャートにとどまった。

3rdアルバム『Love』が制作された時点で、オリジナルメンバーは

フレイムただ一人となりセッション・ミュージシャンを迎えての収録と

なった。

1987年、アルバムはアズテック・カメラの名義でリリースされた。

『Love』はR&Bの影響をうけており、アメリカ市場では商業的に失敗に

終わったが、本国イギリスでは商業的成功を収め、アルバムチャート

では10位に達した。シングル『Somewhere in My Heart』はイギリスの

シングルチャートで 3位に達し、『Love』はバンドの最も商業的に

成功したアルバムとなった。

 

 

1990年、Eric Calviとの共同プロデュースによるアルバム『Stray』を

リリース。『The Crying Scene』、『Good Morning Britain』の2枚の

シングルがリリースされた。『Good Morning Britain』は元クラッシュの

ギタリスト、ミック・ジョーンズとのコラボレーションによるもので、

イギリスのシングルチャートで19位、『Stray』はアルバムチャートの

22位に達した。

その後、フレイムは日本の作曲家、坂本龍一と共に次のアルバム

『Dreamland』をレコーディングする。このコラボレーションは

イエロー・マジック・オーケストラに在籍していた時からのファンで、

坂本龍一がピアノ演奏した『Merry Christmas Mr Lawrence』の

アルバムが好きだったというフレイムの願いが実現したもの。

1993年『Dreamland』をリリース。このアルバムは、バンドで一緒に

活動していたJulian Mendelsohnによりミキシングされた。

1995年、アルバム『Frestonia』をリリース。アコースティックな面を

押し出した、比較的地味な印象となっており、音楽的にも商業的にも

あまりパッとせずイギリスで100位、スコットランドで77位にチャート

インするだけにとどまった。シングルとして『Sun』のみがアルバムから

リリースされた。

この『Frestonia』を最後に、フレイムは自身の名前の下でアルバム制作を

することに決定した。

 

 

2014年にAED Recordsよりリリースされた『Seven Dials』のプロモーション

の手始めとして、イギリスの月刊音楽雑誌Qに登場したフレイムは、

ザ ランドマーク ロンドンに因んで名づけられたアルバムを引き合いに出し

「感覚を呼び起こす大好きな歌」としてプレイリストをチョイスした。

プレイリストにはジョー・ストラマー、Calle Sanlucar(Arcangel)、

クラッシュ、グレイス・ジョーンズ、ルイ・アームストロング、

コクトー・ツインズの曲が含まれている。

 

 

Aztec Camera – How Men Are

 

Aztec Camera – Somewhere in My Heart

 

Aztec Camera – Deep & Wide & Tall

 

Aztec Camera – Working In A Goldmine

 

 

 

 

 

 

Prefab Sprout

Prefab Sprout(プリファブ・スプラウト)は、イギリスのバンド。

1978年、イングランド、ダラム群ウィットン・ギルバート出身の

Paddy McAloon(パディ・マクアルーン)を中心にイギリスの

ニューカッスルで結成された。

最盛期のメンバーはパディ・マクアルーン(Vo, G, Key, programming,

Piano, harmonica, B, 1978 – )、パディ・マクアルーンの実弟

Martin McAloon(B, 1978 – 2010)、Wendy Smith(G, Key,  piano,

tambourine, 1982 – 2000)、Neil Conti(Ds, percussion, 1984 – 2000)。

1982年よりリリースされたアルバムのうち、9枚はイギリスのチャートで

トップ40に達した。そして、シングルの『The King of Rock ‘N’ Roll』は

イギリスのシングルチャートで7位に達した。

バンドは「80年代と90年代で最も愛されたイギリスのポップ・バンドの

一つ」とされ、フロントマンであるパディ・マクアルーンは、

その時代の偉大なソングライターの1人と考えられている。

 

 

1982年、デビューシングル『Lions In My Own Garden:Exit Someone』

をセルフリリースする。

1984年、Kitchenware Recordsよりデビューアルバム『Swoon』を

リリース。このアルバムはスティーリー・ダンやアズテック・カメラの

ような複雑なギター、ベースを特徴としたややとっつきにくい感じの

作品が多く、後の作品とは著しく異なっている。『Don’t Sing』、

『Cue Fanfare』、『Cruel』を収録。

1985年、トーマス・ドルビーのプロデュースによる2ndアルバム

『Steve McQueen』をリリース。前作と比べ、マクアルーンの曲は愛、

不義、悔恨、傷心など様々なものをテーマにわかりやすくユーモアを

織り交ぜたものとなっており、ドルビーのプロデュースによってジャズを

帯びた、抒情的でより充実したサウンドとなっている。

スティーヴ・マックイーンの名義を使用することで起こりうる法的闘争を

避けるため、アメリカに向けて『Two Wheels Good』というタイトルで

リリースされ、アルバムはビルボード200で180位に達した。

シングルとして『When Love Breaks Down』、『Faron Young』、

『Appetite』、『Johnny Johnny』(1986年リリース。アルバムでの

タイトル『Goodbye Lucille#1』がシングルでは『Johnny Johnny』と

変更された)。

1988年、アルバム『From Langley Park to Memphis』をリリース。

アルバムから5枚のシングル『The King of Rock ‘N’ Roll』、

『Cars and Girls』、『Hey Manhattan!』、『Nightingales』、

『The Golden Calf』のシングルがリリースされ

『The King of Rock ‘N’ Roll』はイギリスのチャートで7位、

アイルランドのチャートで6位に達した。

『Cars and Girls』はイギリスのシングルチャートで44位に達し、

5週間チャートインした。この曲はブルース・スプリングスティーンの

曲の中でロマンチックな比喩を使用したことに対しコメントしたもので、

マクアルーンはそれを『Cars and Girls』の中の

”some things hurt more,much more, than cars and girls“

(車や女の子よりも、もっと、たくさん傷つくものはある)という

歌詞で示唆した。

皮肉なことにこの曲がランキングの上位を占めると、歌詞の感情的な

内容にもかかわらず誤った解釈をされ、コンピレーションアルバム

『Summer Cruisin’』や『Top Gear』のような「ドライヴ・ソング」に

定義づけされる傾向があった。

『From Langley Park to Memphis』はイギリスのアルバムチャートで

5位に達し、バンドの最も成功したアルバムとなった。

 

マクアルーンはのちに、あるインタビューで

「おそらく、今が誤解を解き明かす時です。誰もが私が彼

(ブルース・スプリングスティーン)を批判していると思った

(実際に、シングルジャケットにマッチで作られたスプリングスティーンと

おぼしき人形の頭に火がついたアートワークが描かれている)。

真実は正反対で、イギリスの大衆が彼の音楽にどう反応するかに

ついて皮肉を込めることが目的でした。

スプリングスティーンには、イギリス人には理解できない詩がある。

彼は、貧困、孤独、荒廃した悲惨な町について語ることから作品を

つくった。そして『Born in the USA』は完全に誤解されていました。

それはレーガンの快楽主義の象徴であり、彼には非常に退廃的な、

苦しみのような何かがありました。

スプリングスティーンのアコースティック・アルバム

『The Ghost of Tom Joad』(1995)は突破口となり、彼が聴衆の反応を

見ていたことを示していると思います」と語っている。

 

 

1990年、再びトーマス・ドルビーのプロデュースによりアルバム

『Jordan: The Comeback』をリリース。『All the World Loves Lovers』

を収録。シングル『Looking for Atlantis』、『We Let the Stars Go』

がリリースされ、アルバムはBRIT賞にノミネートされた。

1992年、ベストアルバム『A Life of Surprises:The Best of Prefab Sprout』を

リリース。『If You Don’t Love Me』という大ヒット曲を収録したこの

アルバムはビルボードのダンス・チャート10位に到達し数週間とどまり、

UKアルバムチャートでは3位に達した。

1997年、7年ぶりとなるアルバム『Andromeda Heights』をリリース。

パディ・マクアルーンとMartin McAloon、Neil Conti(すでに1992年に

バンドを脱退)で小規模のイギリス・ツアーを行うが、このツアーと

その後リリースのアルバムにはWendy Smithは含まれていなかった。

1999年、 Columbia Recordsより2枚組コンピレーション・アルバム

『38 Carat Collection』をリリース。この期間中、Wendy Smithは最初の

子供の出産後にバンドを脱退する。

2001年、バンドはKitchenware Recordsを離れ、EMI Libertyより

アメリカの西部開拓時代がテーマのコンセプトアルバム

『Gunman and Other Stories』をリリース(このレーベルからの唯一の

リリースとなる)。

プロデューサーにTony Viscontiを迎え、セッション・ミュージシャンと

してCarlos Alomar、ジェフ・ペバー、ジョーダン・ルーデス

(ドリーム・シアター)が参加し、唯一残ったバンドメンバーの

マクアルーン兄弟だけで制作に取りかかった。

オープニング・トラック『Cowboy Dreams』は、イギリスの俳優

ジミー・ネイルのヒット曲で非常に評価されたが、

『Gunman and Other Stories』はイギリスのアルバムチャートで

60位となり、バンドの活動の中で最も商業的に成功しなかったアルバムと

なった。

 

 

2003年、Liberty Recordsよりマクアルーン名義で初のソロアルバム

『I Trawl The Megahertz』をリリース。しかし、マクアルーンは

さまざまな健康問題を抱えていた。

1999年には網膜剥離によりほぼ視力を失っていた。また、大音響の

中ライヴやツアー活動を長年続けた結果、耳鳴りに悩まされるように

なり、2006年以降はメニエール病のため聴覚は衰えていた。

2007年、リマスターされた2枚組CD『Steve McQueen』がリリースされ、

マクアルーンのアコースティック・ギターによる様々なアレンジで

元のアルバムから8曲の新しいバージョンが収録されている。

2009年、アルバム『Let’s Change the World with Music』をリリース。

Kitchenware Records(親レーベルはSony Music)へ回帰した

第1作目となった。

このアルバムは今までリリースされていなかった音源も収録されており、

イギリスのアルバムチャートの39位に達した。シングルはリリース

されていなかったが『Let There Be Music』はラジオ局で

オンエアされ、アルバムから『Sweet Gospel Music』がデジタル

リリースされた。

2013年、Icebreaker / Kitchenware Recordsより『Crimson/Red』を

リリース。このアルバムよりプリファブ・スプラウトは

パディ・マクアルーンがアルバムすべての音楽を作り、歌い、すべての

楽器をプレイしプログラムするソロプロジェクトになったことが

認識された。

マクアルーンは当時のインタビューで、彼の健康問題(特に聴力と

視力の低下)がバンドの音楽をレコーディングしたり指示したり、

他のミュージシャンが参加することといったあらゆることが不可能で

あることを説明した上で、以前のバンドメイトには感謝をしていることを

付け加えた。

 

 

Prefab Sprout – When Love Breaks Down

 

Prefab Sprout – Johnny Johnny

 

Prefab Sprout – Cars and Girls

 

Prefab Sprout – The King of Rock ‘N’ Roll

 

 

 

 

 

 

Living In A Box

Living in a Box(リヴィング・イン・ア・ボックス)はイギリスの

ポップバンド。

1985年、イングランドのマンチェスターで結成された。メンバーは

Richard Darbyshire(リチャード・ダービーシャイア、Vo、G)、

Marcus Vere(マーカス・ ヴィア、Synthesisers)、Anthony Critchlow

(アンソニー・クリッチロウ、Ds)。

 

 

1987年のファーストシングル『Living in a Box』はイギリスやアメリカ

でトップ40入りし、バンドの最も成功したシングルとなった。

バンド名”Living in a Box”は、スタジオ収録した最初の曲のタイトル

からとった。実際に、彼らを一つの場所に導いたのはこの曲であった。

1985年、マーカス・ ヴィアとアンソニー・クリッチロウはChrysalis

Recordsのスタジオでこの曲のデモをレコーディングしていたが、

同じくレコーディングでスタジオに訪れていたミュージシャンの

リチャード・ダービーシャイアにバンドのリード・ヴォーカルと

ギタリストになってくれるよう頼んだ。そして『Living in a Box』を

レコーディングする。

Virgin Recordsの契約がほしかったダービーシャイアだったが、

彼はバンドとの5年の契約にサインするほうを選んだ。そしてバンド

に加入することを承諾し、正式にメンバーとなる。

それから2年後の1987年、Chrysalis Recordsよりデビューアルバム

『Living in a Box』をリリース。『From beginning to end』を収録。

シングル『So The Story Goes』はUKチャートで34位、タイトル

トラック『Living in a Box』はUKシングルチャートで5位に達した。

ビルボードホット100では17位に達し、バンドのアメリカでの唯一

のトップ40ヒットとなった。3つめのシングル『Scales of Justice』

もUKチャート30位のヒットとなった。アルバムはUKチャートで

25位に達した。

1989年、Tom Lord-Alge、Dan Hartmanとの共同プロデュースに

よるアルバム『Gatecrashing』をリリース。『Generate the Wave』、

『Touch Sensitive』、『Day After Tomorrow Night』、『All The

Difference In The World』を収録したこのアルバムは21位に達し、

3枚のシングル『Blow The House Down』(10位)、『Gatecrashing』

(36位)、バラード曲『Room In Your Heart』(5位)はトップ10

ヒットもありさらに高まった。4枚目のシングル『Different Air』は

57位とマイナーヒットとなった。

1990年、3枚目のアルバムがリリースされる予定だったが、レーベルで

あるChrysalisがEMIの傘下となり、レーベル側との創作面での意見の

相違によりバンド内の雲行きも怪しくなり、3枚目のアルバムがリリース

される前にバンドは解散となる。

 

 

 

メンバーのその後の活動

フロントマンのリチャード・ダービーシャイアは音楽業界で長きにわたり

活動を続けている。リサ・スタンスフィールドなどのアーティストに

曲を書いて、ソロアーティストとしてささやかな成功を収めている。

彼のソロ・アルバム未発表の曲や新曲を収録した『How Many Angels』

(1994年)は、1999年に『Love Will Providing』というタイトルで

再リリースされた。

ドラマーのアンソニー・クリッチロウとシンセサイザー・プレイヤー、

マーカス・ ヴィアはバンド解散後に一時的に音楽業界から退いた。

彼は就学前の幼児のためのDVD教材を制作した。

 

 

2016年5月、ヴィアはABCのアルバム『Lexicon of Love II』に収録の

『Viva Love』、『Flames of Desire』、『Kiss Me Goodbye』、

『Ten Below Zero』を共同執筆した。

2016年、リチャード・ダービーシャイア以外のメンバーでバンドが

再結成された。リードシンガーとしてイギリスのソウルシンガー、

ケニー・トーマスが加入。以来、バンドは2017年までイギリスで

ライヴ、フェスティバルのイベントに参加した。

2018年以降、ツアーなどの予定はまだ確認されていない。

 

 

Living In A Box – Living In A Box

 

Living in a box – From beginning to end

 

Living In A Box – So The Story Goes

 

Living In A Box – Room In Your Heart

 

 

 

 

 

 

Johnny Hates Jazz

Johnny Hates Jazz(ジョニー・ヘイツ・ジャズ)はイギリスのバンド。

オリジナルメンバーは、クラーク・ダッチェラー(Vo, Key, G)、

マイク・ノシート(B)、カルヴィン・ヘイズ(Key, Ds)。

バンド名の由来は、メンバーのマイク・ノシートの友人のジョニーが

ジャズ嫌いであったことからきている。

キーボード担当のカルヴィン・ヘイズの父親はRAKレコードのオーナー

で、スージー・クアトロやアニマルズのプロデューサーとして有名な

ミッキー・モスト。

バンドは1987年4月リリースのヒットシングル『Shattered Dreams』で

世界的成功を収めた。

 

 

1986年にデビューシングル『Me and My Foolish Heart』をリリース。

1987年にヴァージン・レコードに移籍。シングル『Shattered Dreams』

をリリース。UKシングルチャートで5位、アメリカのシングルチャートで

2位のヒットを記録。

シングル『I Don’t Want to Be a Hero』をリリース。

さらにデビューアルバム『Turn Back the Clock』もUKアルバムチャート

1位を獲得し、順風満帆かと思われたが、1988年にヴォーカルの

クラーク・ダッチェラーが脱退。後任として元ザ・キュアーの

ベーシスト、フィル・ソーナリーをリードヴォーカルに迎え活動を

続けたものの、2ndアルバム『Tall Stories』のリリース直前にカルヴィン・

ヘイズが交通事故で大ケガを負い、1年以上も音楽活動が出来ない事態と

なってしまい、最終的にバンドは解散してしまう。

 

 

2007年9月、カルヴィン・ヘイズとマイク・ノシートのオリジナルメンバー

2人にヴォーカルとしてダニー・サクソンを加えてバンドを再結成することを

発表。再結成ツアーも行われた。

さらに、2009年10月にはクラーク・ダッチェラーも復帰してニューアルバム

を制作することが発表される。

2010年にはイギリス、デンマーク、シンガポールでライヴが開催されると

ともに、本格的にアルバムの制作に入る。レコーディングは2011年から

2012年にかけて、ピーター・ガブリエル所有のリアル・ワールド・スタジオ

などで行われた。

2013年4月29日に先行シングルとしてタイトルトラック『Magnetized』を

リリース。

同年5月6日、22年ぶりとなるサードアルバム『Magnetized』をリリース。

2010年、オリジナルメンバーのカルヴィン・ヘイズがバンドを脱退。

現在はアメリカに渡り、父親でプロデューサーであるミッキー・モストの

伝記の執筆に専念している。

現在のメンバーはクラーク・ダッチェラー(ソングライター、ヴォーカル、

キーボード)、マイク・ノシート(ギター、ベース、プロデューサー、

エンジニア)。

 

 

Johnny Hates Jazz – Shattered Dreams

 

Johnny Hates Jazz – Turn Back The Clock

 

Johnny Hates Jazz – I Don’t Want To Be A Hero

 

 

 

 

 

 

 

ABC

ABC(エービーシー)は、イギリスのポップバンド。

ジャパン、デュラン・デュラン、スパンダー・バレエなどの

80年代のニューロマンティック・ムーヴメントの一端を担うバンド

のひとつとして認識されている。

オリジナル・ラインアップは金色のラメのスーツで知られている

Martin Fry(マーティン・フライ、Vo)、Mark White

(マーク・ホワイト、G、Key)、Stephen Singleton

(スティーブン・シングルトン、Saxophone)、David Palmer

(デイビッド・パーマー、Ds)。

 

 

1977年にシェフィールドで結成されたバンドVice Versaの創設者

Mark White(マーク・ホワイト、G、Key)、Stephen Singleton

(スティーヴン・シングルトン、Saxophone)は、自身のレーベル

Neutron Recordsを創設。EP『Music 4』 をリリースした。

ジャーナリストをしていたMartin Fry(マーティン・フライ)は、

音楽雑誌「Modern Drugs」で彼らと面談をした。その後まもなく、

フライは彼らからシンセサイザー・プレイヤーとしてオファーされ、

フライは受け入れた。

ツアーでオランダへ行き、ロッテルダムのスタジオでセッションを

した時、フライは即興で歌い始めた。そして誰もが彼の声に感銘を

受けた。バンドはマーク・ホワイトの代わりにフライをリード・シンガー

にすることを決定。曲を書き、新しい名前と概念について考え、およそ

1年が経過した。そして1980年の後半、バンド名をABCと変更する。

1981年、バンドのファーストシングル『Tears Are Notough』がリリース

され、UKトップ20(19位)に輝いた。その後ドラマーのDavid Robinson

が脱退。後任としてDavid Palmer(デイビッド・パーマー)が加入。

まもなくベーシストのMark Lickleyが脱退するが後任は探さなかった。

1982年、トレヴァー・ホーン(元バグルス)をプロデューサーに迎え

デビューアルバム『The Lexicon of Love』をリリース。アルバムは

UKチャートで1位に達した。

1982年、シングル『Poison Arrow』、『The Look of Love』(いずれも

Mark Lickleyがまだバンドのメンバーだった間に録音された)、そして

『All of My Heart』の3つのトップ10ヒットを記録した。

デイビッド・パーマーはイエロー・マジック・オーケストラに参加ために

バンドを脱退。残ったフライ、ホワイト、シングルトンは、次のアルバム

の制作を開始する。

1983年11月、Gary Langanとの共同プロデュースにより2ndアルバム

『Beauty Stab』をリリース。UKチャートで12位に達した。

しかし、前作のような成功を収めることができず、批評家から否定的な

レビューを受けた。

アルバムの最初のシングル『That Was Then but This Is Now』は

UKチャートのトップ20(19位)、続く『SOS』はトップ40(39位)に

ランクインした。

フライとホワイトがバンドの曲を書くためツアーを躊躇した結果、

シングルトンは『Beauty Stab』のリリース直後にバンドを脱退する。

フライとホワイトは、新メンバーとしてFiona Russell Powell(Edenと

して知られる)とアメリカ人David Yarrituをメンバーに迎える。

このラインアップで『How to Be a … Zillionaire!』 をレコーディング。

1985年にリリースされたアルバム『How to Be a … Zillionaire!』では

バンドのイギリスでのチャートの成功はさらに減少したが、彼らはまた

シングル『Be Near Me』でUKトップ30シングルヒット(26位)を記録。

そしてビルボードホット100で9位と、初のアメリカでのヒットを記録

した。『(How to Be A) Millionaire』はビルボードホット100で20位と

なった。他、シングル『Vanity Kills』(UKチャート70位)、『Ocean Blue』

(51位)をリリース。

 

 

フライがホジキンリンパ腫の治療を受けてバンドが中断後、彼とホワイトは

バンドを再編成。1987年にアルバム『Alphabet City』をリリースした。

スモーキー・ロビンソンへの賛辞である『When Smokey Sings』を

フィーチャーしたこのアルバムで5年ぶりにUKトップ10に返り咲いた。

この『When Smokey Sings』はUKトップ10こそ逃したが(11位)、

ビルボードホット100で5位に達し、アメリカでの最大のヒットとなった。

他、『Think Again』、『Rage and Then Regret』を収録。

シングルとして『The Night You Murdered Love』(UK No. 31)、

『King Without a Crown』(UK No. 44)がリリースされた。

1989年10月、PolyGramより5thアルバム『Up』をリリース。これは

ハウス・ミュージックにチャレンジした初のアルバムとなっている。

シングルとして『One Better World』、『The Real Thing』がリリース

された。

デュオはEMIレーベル(北アメリカのMCA)に移り、1991年にアルバム

『Abracadabra』をリリースした。前作に続き、ハウス・ミュージック

を全面に押し出している。

『Love Conquers All』、『Unlock The Secrets Of Your Heart』、

『Answered Prayer』、『Spellbound』を収録。

(2005年、ボーナストラックを追加した音楽ダウンロードのアルバム

がEMIよりリリースされた。『What’s Good About Goodbye』、

『Viva Love (Brother in Rhythm Edit)』、『Kiss Me Goodbye』を収録)

アメリカのダンスチャートに登場した『Love Conquers All』(47位)、

イタリアのハウスミュージック・チームBlack Boxのリミックス『Say It』

(42位。ビルボードDance Club Songs Chartで3位)の2つのシングル

はUKのトップ40に届かなかった。

このアルバムを最後に創立メンバーのマーク・ホワイトはバンドを去り、

デュオとしてのABCの最終アルバムとなった。

 

 

ABCの唯一のメンバーとなったフライは、6年間の休止期間を経て、

1997年にデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、セックス・

ピストルズなどのミュージシャンに敬意を表したアルバム

『Skyscraping』をリリース。アルバムからリリースされた3つの

シングル『Stranger Things』(UKチャートで57位)、『Skyscraping』

(93位)、『Rolling Sevens』(130位)はヒットには結びつかず、

アルバム『Skyscraping』もUKチャート97位と振るわず、商業的に

失敗したアルバムとなった。

 

 

2004年、VH1のテレビ番組「Bands Reunited」は、ABCの

再結成コンサートのためにホワイト、シングルトン、パーマーと

いったオリジナルメンバーを出演させようとした。

フライとパーマーは20年ぶりに再会、カジャグーグーのニック・

ベッグスの助けを借りて一緒にプレイした。

シングルトンとホワイトは参加しないことを選んだ。

2006年5月から6月にかけてアメリカ・ツアーをした後、フライと

パーマーの2人はアルバム『Traffic』の制作に取り掛かる。

『The Lexicon of Love』で一緒に仕事をしたGary Langanが

制作に携わった。

2008年、アルバム『Traffic』をリリース。最初のシングル

『The Very First Time』は4月1日、音楽ダウンロード・トラック

としてリリースされた。

2012年7月19日、フライは30年以上にわたる音楽への貢献が認められ、

シェフィールド大学から名誉音楽博士号を授与された。

彼の娘ナンシーは同じ大学の社会学部で学位を取得した。

2015年10月、ABCの唯一のメンバー、フライは「現在、ABCの新しい

アルバムを制作している。タイトルは『Lexicon of Love II』となる

だろう」と発表した。

2016年、『The Flames of Desire』、『Viva Love』、『Ten Below Zero』

他11曲を収録した、Gary Stevensonとの共同プロデュースによるバンド

の通算9枚目となるアルバム『Lexicon of Love II』をリリースした。

 

 

ABC – The Look Of Love

 

ABC – Poison Arrow

 

ABC – When Smokey Sings

 

 

 

 

 

 

Level 42

Level 42(レベルフォーティートゥー)は、イギリスのバンド。

1980年、イングランドのワイト島で結成された。

オリジナルメンバーはマーク・キング(Vo,B)、マイク・リンダップ

(Key)、フィリップ・グールド(Ds)、ブーン・グールド(G)。

フィリップとブーンは兄弟であり、アルバム『Running in the Family』

を最後に脱退した。

曲『Something about you』、『Lessons in love』はアメリカでも

チャートインするまでのビッグヒットとなった。

「Level 42」の「42」はイギリスのジョークSF小説

「The Hitchhiker’s Guide to the Galaxy」に出てくる生命、宇宙、

そして万物についての究極の疑問の答えをオマージュしたもの。

 

 

1979年にジャズ・ファンク、フュージョンバンドとして結成。

デビュー時しばらくは、インスト指向のマニアックな色合いが

強かったが、EW&Fのメンバー、ラリー・ダンをプロデューサーに

迎えたあたりから、商業的な路線に方向転換を見せる。

バンドは1994年に1度解散しているが、マーク・キングのソロ

プロジェクトという形態で、メンバーを交代して再結成されている。

2006年には、オリジナルメンバーであるマイク・リンダップが復帰し、

『Retroglide』をリリースするとともに、ツアーを行う事が決定した。

 

現在のメンバー

・マーク・キング(B,1980–1994, 2001 – )

・マイク・リンダップ(Key,1980–1994, 2006 – )

・ネイザン・キング(G,2001 – )、(Touring member,1999 – 2001)

・シーン・フリーマン(Saxophone,2001 – )

・ピート・レイ・ビギン(Ds,2010 – )

また、オリジナルメンバーのブーン・グールドも曲作りに参加している

ほか、1曲のみ演奏に参加している。

 

 

Level 42 – Something About You

 

Level 42 – Lessons In Love

 

Level 42 – Level 42 – Running In The Family

 

Level 42 – To Be With You Again

 

 

 

 

 

 

The Blow Monkeys

The Blow Monkeys(ブロウ・モンキーズ)はイギリスのバンド。

1981年、スコットランド出身のドクター・ロバート

(本名:Bruce Robert Howard)を中心に結成された。

ギター&ヴォーカル、ドラムス、サックス、フレットレスベースと

いうユニークな編成である。 結成時は、ドラマーは別の人物だったが、

新たにトニーを迎え、以降再結成を含め不動である。

バンド名の由来は、ロバートが10代を過ごしたオーストラリアの

スラングでアボリジニ(「ディジュリドゥを吹く猿」の意)を指すもの

と言われる。

彼らのサウンドは80年代、同時期に活躍したスタイル・カウンシルと

よく比較されるように、ソウル、R&B、フィリーサウンドなどを中心

としているが、初期はフォークやブルースから、80年代後期のシーンを

席捲したハウスミュージック、末期には各種ワールドミュージックまで

貪欲に取り入れている。

また優雅で類まれな容姿と歌唱力を持つロバートの魅力も相まってバンド

は80年代後半以降人気を獲得していった。

 

 

世界的に認知されたのは1986年発表のセカンドアルバム『Animal Magic』

からのシングル『Diggin’ Your Scene』(ビルボードホット100で14位〉

である。『She Was Only A Grocer’s Daughter』(1987年)からの

『It Doesn’t Have To Be This Way』はアメリカではヒットには至らなかった

もののUKチャートでは10位内にランクインし、また日本でもヒットして

1986年、 1987年、1989年と3度の来日を果たしている。

1990年8月に突然バンドは解散した。もう歌いたくないとロバートは語って

いたが、ソロに転向し、その後は初期に回帰するようなアコースティック

サウンド中心の落ち着いた大人っぽいスタイルへ移行していった。

2008年には、不動のメンバー4人で本格的な再結成を果たしてコンスタント

なライヴ活動に加えて、オリジナルアルバムも製作している。

 

 

The Blow Monkeys – Digging Your Scene

 

The Blow Monkeys – It Doesn’t Have to Be This Way

 

The Blow Monkeys – It Pays to Belong

 

 

 

 

 

 

The Style Council

The Style Council(スタイル・カウンシル)は、イギリスのポップ・

ロックバンド。

1982年に結成された。メンバーは流動的であったが、基本的には

リーダーであるPaul Weller(ポール・ウェラー、Vo、G)、Mick Talbot

(ミック・タルボット、Organ、Synthesizer)を基本メンバーとし、

加えてD.C.Lee(D.C.リー、chorus、Vo)、Steve White(スティーヴ・

ホワイト、Ds)の4人で構成されることが多かった。

4枚(未発表のものを含めれば5枚)のオリジナルアルバムを発表した。

 

 

イギリスのモッズバンドThe Jam(ザ・ジャム)のポール・ウェラーは、

1982年にバンドを解散。ミック・タルボットと共にスタイル・カウンシル

を結成する。

1983年3月にシングル『Speak Like a Child』をリリース。

バンドは、音楽スタイルの多様性を追求し、シングル『Speak Like a Child』、

『Money-Go-Round』、『Long Hot Summer』はすべてタルボットの

キーボードとオルガンをフィーチャーしたものである。

これらの曲は、1983年の終わり頃、ミニ・アルバム『Introducing The

Style Council』として当初は日本、オランダ、カナダ、米国でのみリリース

された。

1984年3月、デビューアルバム『Café Bleu』をリリース。

シングルとして『My Ever Changing Moods』、『You’re The Best Thing』

がリリースされた。

ジャズやソウルなど、様々な音楽がミックスされた洗練されたポップスは

高評価を得ることになった。

1985年、2ndアルバム『Our Favourite Shop』をリリース。UKアルバム

チャート1位を獲得し、スタイル・カウンシルの評価はさらに高まった。

7番目のシングルとして『Shout to the Top!』がリリースされた

(この曲は、2つのトラック『The Stand Up Comic’s Instructions』、

『Favorite Shop』を除いたアメリカ盤『Our Favourite Shop』に収録

されている)。

1987年にリリースした3rdアルバム『The Cost Of Loving』は、UKアルバム

チャート2位のヒットを記録した。

1988年の4thアルバム『Confessions Of A Pop Group』では評論家に酷評

された。

1989年、バンドは解散を発表。ポール・ウェラーはこのことについて

「2〜3年前にやるべきだった。私たちの時代に何曲かの素晴らしい音楽を

作ったが、それはしばらく評価されないだろう」と語った。

 

 

The Style Council – Shout To The Top

 

The Style Council – My Ever Changing Moods

 

The Style Council – Walls Come Tumbling Down!

 

The Style Council – Have You Ever Had It So Blue