80s New Wave / Synth-pop – Ⅱ

 

 

 

今回は、イギリスで発祥し80年代に一世を風靡した

シンセポップのバンドを紹介します。

 

 


 

 

Depeche Mode

Depeche Mode(デペッシュ・モード)は、イギリスのロックバンド。

将来デペッシュ・モードのメンバーとなるVince Clarke(ヴィンス・クラーク)、

Martin Gore(マーティン・ゴア)、Andy Fletcher(アンディ・フレッチャー

※2022年7月 下記追記あり)はイングランドのエセックス州バジルドンで

ともに育つ。

1977年、ヴィンス・クラーク(Vo、G)とアンディ・フレッチャー(B)は

The Cureの影響を反映したバンドNo Romance In Chinaを結成。

マーティン・ゴアは1978年から1979年にかけて学校の友人Phil Burdettと

Norman&The Wormsというバンドでアコースティック・ギターを弾いていた。

1979年、UltravoxのJohn Foxxに影響を受けていた幼なじみのRobert Marlow、

友人Paul LangwithとともにThe Planというバンドで活動していたクラークは

マーティン・ゴア(G)、Robert Marlow(Vo、Key)、友人のPaul Redmond

(Key)をバンドに誘いThe French Lookを結成。

1980年3月、クラーク(Vo,G)、ゴア(Key)、フレッチャー(B)は

Composition of Soundというバンドを結成する。そして地元のジャム・セッション

でデヴィッド・ボウイの『Heroes』を歌っていたDave Gahan(デイヴ・ガーン、

Vo)をバンドに誘い加入。デペッシュ・モードの誕生となる。

バンド名はフランスのファッション誌”Dépêche mode”から取られた。

デイヴ・ガーンとマーティン・ゴアは好きなアーティストとしてスパークス、

スージー・アンド・ザ・バンシーズ、キャバレー・ヴォルテール、 トーキング・

ヘッズ、イギー・ポップを挙げている。

 

 

デビューのきっかけは、彼らのステージを東ロンドンにあるパブ「ブリッジハウス」

で見たミュート・レコードのダニエル・ミラーに声をかけられたことである。

この出会いがデペッシュ・モード、そしてミュート・レコードの後の運命を変えた。

彼らは1981年2月にデビューシングル『Dreaming of Me』をリリース。UKチャート

で57位を記録する。続いてシングル『New Life』をリリース。UKチャート11位を

記録するヒットとなり、3ヵ月後に出した『Just Can’t Get Enough』ではUKチャート

最高8位とバンド初のトップ10ヒットとなった。

同年9月、デビューアルバム『Speak & Spell(邦題:ニュー・ライフ)』をリリース。

Any Second Now (Voices)』、『Puppets』、『New Life』、『Photographic』、

『Just Can’t Get Enough』など収録。アルバムはUKチャート10位を記録し、

評論家や雑誌から好意的な評価を得た。

1981年、ヴィンスが脱退。作詞・作曲を手がけていたヴィンスの脱退はバンドに

とってダメージとなったが、『Speak & Spell』で『Tora! Tora! Tora!』と

Big Muff』の2曲を手がけたマーティンが代わりに作詞、作曲を担当することで

バンドを存続させ、この件がマーティンの才能を開花させるきっかけとなった。

ヴィンス脱退後の初のシングルとなった『See You』は過去最高のUKチャート

6位を記録した。

1982年、2ndアルバム『A Broken Frame』をリリース。マーティン・ゴアに

よってすべての曲が書かれたこのアルバムは、シンガーのAlison MoyetとYazoo

を結成したヴィンス・クラークの脱退後にレコーディングされた。

Alan Wilder(アラン・ワイルダー)は『A Broken Frame』のリリース前にバンド

のイギリスでの2度目のツアーメンバーだったがまだ公式には参加しておらず、

アルバムにはクレジットされていない。

1983年にアラン・ワイルダーが正式にバンドに加入。4人編成に戻ってから初の

シングルとなる『Get the Balance Right!』をリリース。これは後のベスト盤まで

アルバムには収録されなかった。

1983年、アルバム『Construction Time Again』をリリース。このアルバムが

アラン・ワイルダーの参加した初のアルバムとなり『Two Minute Warning』、

『The Landscape Is Changing』の2曲を書き、ソングライティングの面でも

貢献した。彼はバンドの音楽性に今までにない要素、金属の打撃音や摩擦音と

いったインダストリアル・ミュージックの要素を持ち込んだ。

1984年3月、先行シングルとして『People Are People』がリリースされ、

アイルランド、ポーランドで2位、イギリスとスイスで4位、西ドイツで1位に

達し、バンド初のシングル・チャートのトップに立った曲となった。

ヨーロッパでの成功の後、1985年中頃にはビルボードホット100で13位に達し、

カナダでトップ20にランクインした。

『People Are People』はその後、LGBTコミュニティのアンセムとなった。

Sire Records(バンドの北アメリカのレーベル)は『A Broken Frame』、

『Construction Time Again』の2つのトラックにいくつかのB面の曲が

含まれた同じタイトルのコンピレーション・アルバムをリリースした。

同年9月、アルバム『Some Great Reward』をリリース。シングルとして

Master And Servant』、ダブルA面の『Blasphemous Rumours / Somebody

がリリースされ、『Somebody』はマーティン・ゴアがリードヴォーカルを

とった初のシングルとなった。

アメリカでは、バンドの音楽は最初ロサンゼルスのKROQ-FM、サンフランシスコ

のKQAK(現在はオレゴン州ベンドのFMラジオ局)、 ボストンのWFNX、

ニューヨークのWLIRのようなラジオ局で注目を集め、ソフトロックとディスコ・

ミュージックに圧されていたオルタナティヴ・ミュージックのリスナーにアピール

した。それに対してドイツ、フランスなどのヨーロッパ諸国では、彼らの音楽の

暗くて深刻なトーンにもかかわらず、80年代中頃で最も有名なシンセポップ・バンド

の1つと認識され、ヨーロッパのティーンの雑誌でたびたび取り上げられた。

 

 

1986年、15thシングル『Stripped』とそれに伴うアルバム『Black Celebration』が

リリースされ、デペッシュ・モードの音楽スタイルは、再びわずかに変化した。

想像力豊かなサンプリングを保持しながらも、インダストリアル・ポップを特徴と

した前作の2つのアルバムのサウンドから離れ、バンドは不吉な雰囲気を醸し出す

質感のサウンドを導入した。ゴアの歌詞もより暗いトーンを引き継ぎ、さらに悲観的

になった。

『A Question of Time』のミュージックビデオはU2、デヴィッド・ボウイ、ビョーク

など数々のアーティストを撮り続けてきたアントン・コービンが初めて監督を手がけた

もので(コービンはバンドの20曲のビデオを監督しており、最新の監督作は2017年の

『Where’s the Revolution』)、以降共同制作者としての関係は今日まで続いている。

1987年リリースのアルバム『Music for the Masses』では、アルバム製作の

あえてサンプリング避け、シンセサイザーの音を重点的に取り入れ、サウンド的

にも更なる変化が見られた

シングル『Strangelove』、『Never Let Me Again Again』、『Behind the Wheel』

はカナダ、ブラジル、西ドイツ、南アフリカ、スウェーデン、スイスなどの国で

トップ10に入ることが多かったが、イギリスでは大きなヒットにつながらなかった。

Record Mirrorは『Music for the Masses』を「これまでのデペッシュ・モードの

中で、最も完成された魅力的でセクシーなアルバム」と評した。

1989年、シングル『Personal Jesus』をリリース。マーケティング・キャンペーン

として、バンドは新聞の広告欄に「Your own personal Jesus.」という言葉を掲載

した。その広告には曲を聞くための電話番号が含まれていた。

その結果、イギリスでのシングルチャートは13位に達し、バンドの最大のヒットと

なった。アメリカでは『People Are People』以来のヒットシングル、そして初の

トップ40ヒットを記録した。

1990年、アルバム『Violator』をリリース。『Enjoy the Silence』、

Policy Of Truth』、『World In My Eyes』のシングルがリリースされた。

『Violator』はビルボード200で7位に達し、74週もの間チャートにとどまり、

RIAAよりトリプル・プラチナに認定された。

『Violator』はアメリカでバンド初のトップ10にチャートインしたアルバムで、

バンドのベストセラーアルバムとなった。

 

 

1992年からバンドは次のアルバムに向け活動を再開、録音はスペインで行われた

が、街から遠く離れた別荘で行われたため、事実上の監禁状態にあった。

そうした中で生まれたシングル『I Feel You』はグランジ・ロックやオルタナティヴ・

ロックの影響を色濃く受けたロックナンバーであり、バンドのイメージをさらに

一新させるものとなった。加えてデイヴの風貌はかつてのオールバックから長髪に

髭を蓄えたものへと変化した。

1993年リリースのアルバム『Songs of Faith and Devotion』は、歌詞が宗教的な

要素を多く含んでおり、従来のマーティン・ゴアには見られなかった表現であった。

しかし、セールス的な面で言えば『I Feel You』はアメリカのモダン・ロック・

チャートで5週連続1位を記録し『Songs of Faith and Devotion』は売り上げこそ

前作『Violator』に及ばなかったものの、イギリス、アメリカ、ドイツなどで1位を

記録した。

1995年6月、アラン・ワイルダーがバンドを脱退。その理由として「バンドでの

音楽面の貢献に対する自分への敬意が払われていない」と主張した。

同じ年の8月、今度はデイヴが自殺未遂をする。この時点でデイヴ・ガーンは

長年の薬物使用による重度の薬物中毒に陥っており、また2番目の妻とも離婚を

余儀なくされるなど、治療を要する状態になっていた。

薬物治療を経て回復した矢先の1996年5月28日、親族から電話で懲りずに繰り返す

と言われたことに逆上し、ロサンゼルスのホテルの一室でヘロインとコカインの

混合物を大量に注射し、手首を切って自殺を図った。偶然、友人がデイヴの滞在

していた部屋を尋ね、意識を失ったデイヴを発見し通報、病院へと搬送された。

その途中、デイヴの心臓が2分間止まっている。

一命は取り留めたものの、2日後に警察に逮捕され、裁判の結果9ヶ月のリハビリを

命じられ、これを達成する。以来、長年使用していた薬物と縁を切り、住んでいた

ロサンゼルスを離れニューヨークへと移った。

さらにマーティン・ゴアもアルコール依存症に苦しんでいたことが後に雑誌

「Q」でのインタビューで判明した。同時に、Devotionalツアー南米公演における

アンディ・フレッチャーの参加拒否の理由が、メンバーがそれぞれ抱えていた

問題に対処しきれず悩んだ末に心を病んだことが原因のひとつだったことも判明

した。

 

 

次回作の準備は、一連のトラブルの最中に行われていた。プロデューサーに

ボム・ザ・ベースのティム・シムノンを招き、作曲も進んでいた。

しかしデイヴの自殺未遂とその後のリハビリの影響により、スケジュールは

大幅に伸びてしまった。

1997年2月に完成した3人組での再出発アルバム『Ultra』は翌1997年4月に

リリースされる。先行シングルの『Barrel of a Gun』はデイヴの過酷な状況

を表現した重い歌詞とメロディのロックナンバーで、かつてのメンバーの

ヴィンスが雑誌「Q」のインタビューの中で当惑する有様であった。しかし

英国チャート4位を記録。アルバムも英国チャート1位を記録した。

『Barrel of a Gun』に続くシングルとして『It’s No Good』がリリースされた。

『Ultra』はさらに2つのシングル『Home』、『Useless』を生み出した。

2001年の『Exciter』では、かつてのLFOの中心メンバーで、ビョークとの

仕事で実績のあるマーク・ベルをプロデューサーに迎える。

IDMなど先進的なテクノやハウスの要素を盛り込み、従来のアルバムとは

毛色の違うものとなったが、評価は二分されNMEやローリング・ストーンと

いった雑誌は好意的に受けとったが、多くのメディアが否定的な見解を見せた。

2003年、デイヴ、マーティンはそれぞれソロ作品を発表する。特にデイヴは

自ら作詞作曲にチャレンジしたことから、一部からはバンド解散が危惧された。

一方アンディ・フレッチャーは自らのレーベル「トースト・ハワイ」を立ち上げ、

クライアントという女性エレクトロデュオをプロデュースした。

2005年、プロデューサーにブラーの『Think Tank』などを手がけたBen Hillierを

迎えアルバム『Playing the Angel』をリリース。シングルとして『A Pain That

I’m Used To』、『John the Revelator』、『Suffer Well』、『Precious』、

Lilian』がリリースされた。また、リードシンガーのデイヴ・ガーンが

曲づくりに携わった初のアルバムとなり『Suffer Well』、『I Want It All』、

『Nothing’s Impossible』の3曲を共同で執筆した。

セールスはアメリカでは『Exciter』を僅かに下回ったが、全世界的に見ると

360万枚に達するなど一定の成果を見せた。

2006年からは過去のアルバムのリマスターがSA-CD(ハイブリッド)とDVDの

セットで逐次リリースされ、2007年3月で『Playing the Angel』を含む全ての

オリジナル・アルバムがリマスター化された。

また3枚目のベストアルバム『The Best of Depeche Mode Volume 1』がリリース

され、これに収録された新曲『Martyr』もシングルとしてリリースされた。

2006年には輝かしい記録を作っている。音楽配信サイト7digital.comの2006年度

年間売り上げのトップアーティストとしてデペッシュ・モードがランクインされた

ほか、MTVヨーロッパ・ミュージック・アワードにおいて最優秀グループ賞を

獲得した。

 

 

2007年はデイヴ・ガーンの2作目のソロアルバム『Hourglass』がリリースされた。

マーティン・ゴアに続き、アンディ・フレッチャーもDJとして世界各地に足を

運んでいる。

2008年8月、長年所属していたアメリカのワーナー・ミュージック・グループ

との契約を終了。イギリスのEMIと契約を締結したことを発表。

1980年から所属するイギリスのミュート・レコード、アメリカのヴァージン・

レコードを通して世界的なリリースを開始する。

2009年、アルバム『Sounds of the Universe』は前作『Playing the Angel』の

コラボレーションにとても満足していたため、再びBen Hillierのプロデュースに

よるものとなった。

2012年12月、バンドは世界的な展開に向けてColumbia Recordsと契約を締結。

2013年にアルバム『Delta Machine』をリリース。

2017年、通算14枚目となるアルバム『Spirit』がリリースされた。

 

 

デペッシュ・モードはマリリン・マンソンやデフトーンズといった、多くの

ヘヴィメタルのバンド、アーティストに影響を与え、その暗い歌詞や音楽が

引用されてきた。2017年にはスウェーデンのへヴィメタルバンド、

イン・フレイムスが『It’s No Good』をカヴァーした。

彼らはまた、デトロイト・テクノとインディー・ロックに影響を与えた。

 

※2022年7月追記

デペッシュ・モードの創設メンバーでキーボーディストのアンディ・フレッチャーが

2022年5月26日、自宅にて大動脈解離を発症して60歳で亡くなった。

バンドメイトであるデイヴ・ガーンとマーティン・ゴアは

「親愛なる友人、家族、バンドメイトのアンディ・ ”フレッチ” ・フレッチャーの

早すぎる死にショックを受け、圧倒的な悲しみに満ちている。

彼は思いやりのある心の持ち主で、サポートが必要な時、楽しい会話、

大笑いしたいとき、または冷たいビールが飲みたいときはいつでもそこに

いてくれた。

この困難な時期、私たちの心は彼の家族とともにあります。そしてどうか

彼らのため、プライバシーを尊重してほしい」と述べた。

元デペッシュ・モードのメンバーであるアラン・ワイルダーは、

フレッチャーの死を知ったのは「まさに青天の霹靂」だったと述べた。

 

 

Depeche Mode – Just Can’t Get Enough

 

Depeche Mode – Everything Counts

 

Depeche Mode – People Are People

 

Depeche Mode – Strangelove

 

 

 

 

 

 

New Order

New Order(ニュー・オーダー)は、イギリスのロックバンド。

マンチェスターにて結成された。ポストパンクの代表的なバンドの一つ、

ジョイ・ディヴィジョンを前身とする。

ポスト・パンクとエレクトロニック・ダンス・ミュージックの融合は、

1980年代の最も批判的で評判の高い影響力のあるバンドの1つになった。

1980年、イアン・カーティスの自殺によりヴォーカリスト兼作詞家を

失ったジョイ・ディヴィジョンは活動停止を余儀なくされた。

残された3人のメンバー(バーナード・サムナー、ピーター・フック、

スティーヴン・モリス)は話し合いの末、音楽活動を継続することを

決意。

以前に交わした「メンバーが一人でも欠けたらジョイ・ディヴィジョン

の名前でバンド活動は行わない」という約束に基づき、新バンドは

「ニュー・オーダー」と名乗ることになった。また、紆余曲折の末に

バーナード・サムナーがイアン・カーティスに代わるヴォーカリスト

を務めることになった。

1981年5月、古巣のファクトリー・レコードからシングル『Ceremony』

でデビュー。11月にはデビューアルバム『Movement』をリリースする。

これらの作品はジョイ・ディヴィジョンの延長線上ともいえる陰鬱な

サウンドに彩られていたが、同年12月のシングル『Everything’s Gone

Green』では電子音を用いたエレクトロ寄りのアプローチをみせ、

新境地を開く。また、1982年には当時モリスのガールフレンドで将来の

妻であるジリアン・ギルバートを四人目のメンバーとして加えた。

1982年5月には所属レーベルのファクトリー・レコードの社長である

トニー・ウィルソンと共同経営の形でマンチェスターにディスコを

オープン。ハシエンダと名付けられたこのクラブは、英国の初期のクラブ

文化の発展に寄与し、1980年代終わりから1990年代始めに掛けて世界中

に衝撃を与えたマッドチェスターやセカンド・サマー・オブ・ラブと

いった音楽シーンを生み出す母体となった。

1983年、アルバム『Power, Corruption & Lies』をリリース。

シンセサイザーを駆使し、前作よりエレクトロの要素を強めた作品と

なった。この方向性をさらに進めたのが、同年3月、シングルとして

リリースされた『Blue Monday』で、大ヒットを記録した同作は

12インチ・シングルとしては史上最も売れた作品となった。

1985年に『Low-Life』、1986年に『Brotherhood』と立て続けに

アルバムをリリース。この2つのアルバムは幅広い支持を受け、イギリスの

チャート上位にランクインするなど商業的成功も収めた。

1987年12月、バンドは更なるシングル『Touched by the Hand of God』

をリリース。

キャスリン・ビグロー監督によるグラムメタルをパロディ化したビデオで、

UKインディーズ・チャート1位、UKシングル・チャート20位に達した。

この『Touched by the Hand of God』は、1994年のコンピレーション・

アルバム『The Best of New Order』までお目見えしなかった。

1989年、5thアルバム『Technique』をリリース。当時新しいクラブ・

サウンドが流行り始めていたイビサ島でレコーディングが行なわれ、

流行を先取りした同作はアメリカおよびイギリスなどでゴールドディスク

に認定され、名実ともに彼らの黄金期を代表するアルバムとなった。

1992年、Factory Recordsよりシングル『Temptation』をリリース。

シングルはUKチャートの29位に達した。

 

 

ファクトリー・レコードの崩壊に伴い、ニュー・オーダーのアルバム

『Republic』(1993年)はロンドン・レコードよりリリース。

アルバムから『Regret』、『World (The Price of Love)』、

『Ruined in a Day』、『Spooky』の4枚のシングルがリリースされた。

アルバムの制作過程でメンバー間の対立が顕著になったこともあり、

8月に行われたレディング・フェスティバルでのライヴを最後に活動を

休止。

日本ではこの後テクノブームが全盛期を迎えるが、ニュー・オーダーは

シーンの中心から遠ざかっていく。メンバーは各自のソロ活動に専念する

ことになった。

1998年、マネージャーの進言により5年ぶりに顔を合わせたメンバーは

活動の再開を決意。同年のレディング・フェスティバルで復活ライヴを

行った。

また、これ以降のライヴではこれまで自粛していたジョイ・ディヴィジョン

時代の楽曲も積極的に演奏されるようになった。

 

 

2001年、アルバム『Get Ready』をリリース。『Crystal』を収録。

従来よりギター・サウンドを前面に出した作品となった。スマッシング・

パンプキンズのビリー・コーガンが一部のレコーディングに参加したほか、

アルバム発表後のツアーでもサポート・メンバーとしてステージに立った。

また、このアルバムを最後にジリアン・ギルバートが脱退し、サポート

メンバーだった元マリオンのフィル・カニンガムが正式なメンバーとして

迎えられた。

2005年には8作目となる『Waiting for the Sirens’ Call 』をリリース。

2007年5月、ピーター・フックは複数のメディアで「バーナード(・サムナー)

とは一緒にやっていない」と述べ「ニュー・オーダーは解散した」と明言。

その一方で、サムナーとモリスは英BBC Newsに宛てた文書を通じて正式に

「解散はせず今後も2人で活動を続けて行く」とコメントし、事実上フックは

脱退したとの認識を明らかにした。これに対しフックはMySpace上の自身の

ページにて「バンドはもう終わった。残り三分の二(サムナーとモリス)に

活動を続ける権利は無い。僕にも三分の一の権利がある」と改めて解散を宣言、

交渉に応じるとも述べながら、裁判を示唆するコメントを残した。

2009年、バーナード・サムナーはフィル・カニンガムと無名の新人ジェイク・

エヴァンスと共に新バンドのバッド・ルーテナント(Bad Lieutenant)を結成。

レコーディングにはブラーのアレックス・ジェームスの他、ジョイ・ディヴィジョン

時代からの旧友であるスティーヴン・モリスも参加した。

 

 

2011年9月、ニュー・オーダーとしての再結成ライヴを行うことが発表された。

また、ジリアン・ギルバートが復帰するものの、ピーター・フックは参加しない

ことが明らかにされた。ライヴではフックの代役としてバッド・ルーテナントの

レコーディングに参加したトム・チャップマンがベースを担当した。

2012年2月、ピーター・フック抜きで再結成したことを表明した。

2013年、アルバム『Lost Sirens』をリリース。

2015年、アルバム『Music Complete』をリリースした。

 

ここでいうテクノ(Techno)とは、アメリカのミシガン州デトロイト発祥の

クラブミュージックを指す。

なお、日本においてテクノポップ(Technopop,Techno Pop)をテクノと略す

ことも見受けられるが音楽的には異なる。テクノポップという言葉は日本で

造られた言葉であり、1970年後半から1980年代に使用された。

ドイツのバンド、クラフトワークのクラウト・ロックに影響を受けた日本の

YMOはシンセサイザー、シーケンサー、ヴォコーダーなどの電子楽器を使用し

エレクトロ・ポップ(Electropop)と呼ばれる音楽を広めることに貢献した

(彼らは日本でテクノポップの先駆者と認識されている)。

それをよりポップにしたシンセポップ(Synthpop)がイギリス、ドイツを

中心として広まり、やがて世界中で流行した。テクノポップはこのシンセポップ

に当てはまる。

 

 

New Order – Blue Monday

 

New Order – Bizarre Love Triangle

 

New Order – True Faith

 

New Order – Touched By The Hand Of God

 

 

 

 

 

Thompson Twins

Thompson Twins(トンプソン・ツインズ)は、イギリスのバンド。

1977年、シェフィールドでトム・ベイリー(vo,b)を中心に結成。

当時流行のニュー・ウェイヴ・バンドとして、後にロンドンで活動する

ようになる。1981年のデビュー当時は7人編成であった。

1982年に『In the Name of Love』がヒットするが、その直後にバンド内

で不和が起こり、ベイリー、ジョー・リーウェイ、アラナ・カリーの

3人編成となった。

1983年からはシンセポップ色を強め、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン

の波に乗り『Hold Me Now』、『Lay Your Hands On Me』がヒットした。

ポップで親しみやすい音楽性でアメリカを始め世界各国で幅広い人気を獲得

した。

1986年にリーウェイが脱退、その後セールスが落ち込んだ。1991年にベイリー

とカリーは結婚しニュージーランドに移住。1993年にトンプソン・ツインズの

解散を発表した。

現在はベイリーとカリーは離婚し、どちらもイギリスで生活をしている。

2014年、ハワード・ジョーンズ、ミッジ・ユーロらとともに27年ぶりのツアー

を敢行、トンプソン・ツインズの楽曲を披露したことが大きな話題となった。

 

Thompson Twins – Hold Me Now

 

Thompson Twins – Lay Your Hands On Me

 

Thompson Twins – Doctor! Doctor!

 

Thompson Twins – King For A Day

 

 

 

 

 

Talk Talk

Talk Talk(トーク・トーク)はイギリスのバンド。

1981年、ロンドンでThe Reactionの名の下結成。

メンバーはMark Hollis(マーク・ホリス、Vo. 

※2022年7月追記 2019年2月25日、がんで亡くなった。64歳)、

Lee Harris(リー・ハリス、Ds)、Paul Webb(ポール・ウェッブ、B)、

Simon Brenner(サイモン・ブレンナー、Key)の4人。

初期の頃、彼らはたびたびデュラン・デュランと比較された。

重なる言葉からなるバンド名に加えて、ロキシー・ミュージック

からインスピレーションを受けた音楽の方向性も共有した。

バンドも1981年後半にツアー中のデュラン・デュランをサポート

した。

1982年にデビューアルバム『The Party’s Over』をリリース。

UKチャートで21位に達した。

1983年、シングル『My Foolish Friend』をリリース後、サイモン・

ブレンナーが脱退。サポートとしてティム・フリーズ・グリーン

(Key)を迎え、同時に作曲、バンドのプロデューサー業も担当

するようになる。

1984年にリリースされた2ndアルバム『It’s My Life』は前作よりも

好意的なレビューに迎えられ、中でも同アルバムからのシングル

『Such a Shame』はオーストリア、ドイツ、イタリア、スイスで

トップ5を獲得、タイトルトラック『It’s My Life』はアメリカ、カナダ、

フランス、ドイツ、ニュージーランド、オランダでトップ10入りを

果たすなど、各国で商業的成功を収めた。しかし本国イギリスでは

同シングルは最高49位、アルバムは最高35位にとどまるなど苦戦を

強いられていた。『It’s My Life』はゲームSaints Row: The Thirdに

使用されている。

1986年、3rdアルバム『The Colour of Spring』をリリース。それまでの

シンセポップ、ニューロマンティック路線から脱却を図り、オルガンや

ハーモニカ、サキソフォン、ハープなどといった楽器の導入により

オーガニックなサウンドを獲得した同作はバンド最高のUKチャート8位を

記録。ヨーロッパ各国はもちろん、それ以外の地域でも良好なセールスを

記録した。

『カラー・オブ・スプリング』の商業的な成功から、次のアルバムの費用

とスケジュールを十分に工面できたグループは多数の外部のミュージシャン

とのセッションが可能になり、1988年に4thアルバム『Spirit of Eden』を

リリースする。本作は長時間に及ぶ即興演奏をホリスとフリーズ・グリーン

が編集し、デジタル機器によりアレンジが加えられた結果、ロックの他に

クラシックやジャズ、アンビエントなどの要素を含んだ、前作以上に

実験的な様相を呈している。批評家からは今まで以上に高い評価を受け、

アルバムはUKチャート19位を記録したが、グループはアルバムに伴う

ツアーは行わないと宣言。

1990年にはそれまでのキャリアを総括するベスト・アルバム

『Natural History:The Very Best of Talk Talk』をリリースしUKチャート

3位を獲得、全世界で100万枚以上のセールスを記録し最大のヒットとなる。

同時期にシングル『It’s My Life』、『Life’s What You Make It』、

『Such a Shame』が再リリースされ『It’s My Life』はシングルで

過去最高のUKチャート3位を記録(2003年にはアメリカのロックバンド、

ノー・ダウトが『It’s My Life』をカヴァーしている)。

同年、バンドはポリドール・レコードと契約を結ぶがこの時にウェッブが

脱退し、オリジナルメンバーは2人だけとなる。

1991年にラストアルバムとなる『Laughing Stock』をリリースする。

前作『Spirit of Eden』同様、アンビエント的サウンドを展開し、

批評家から肯定的なレビューを受けた。アルバムはUKチャート26位に

達した。このアルバムを最後に、バンドは解散した。

 

 

ホリスとトーク・トークは、レーベルなどの商業的利益の圧力に決して

屈しなかったアーティストとして賞賛され続けている。

1984年に撮影された『It’s My Life』のミュージックビデオは

(気難しいホリスは当初、口パクを嘲笑しているビデオを完成させた)

EMIサイドが気に入らず撮り直しを要求。結果、完全に口を隠すような

あのような皮肉めいたビデオが完成した。

 

 

Talk Talk – Living in another world

 

Talk Talk – It´s My Life
     

 

Talk Talk – Life’s what you make it
     

 

Talk Talk – Such A Shame
     

 

 

 

 

 

Orchestral Manoeuvres in the Dark

Orchestral Manoeuvres in the Dark(オーケストラル・マヌーヴァーズ・

イン・ザ・ダーク)は、イギリスのシンセポップ・デュオ。

1960年代初頭、リヴァプールでバンドの創設者であるAndy McCluskey

(アンディ・マクラスキー)とPaul Humphreys(ポール・ハンフリース)

は小学校で出会う。1970年代半ばのティーンエイジャーの頃、2人は

さまざまな地元のバンドに参加。

1975年、ドイツのバンド、クラフトワークとイギリスのミュージシャン、

ブライアン・イーノの音楽に対する愛情を共有していたマクラスキーと

ハンフリースは、当時流行していたエレクトロニック・ミュージックに

影響をうけたバンド、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク

を結成する。

当時3台のラジオとテレビから録音したノイズ、ベースやギター、

エコーユニットなどを使い、最初の曲を録音する。この時につくった曲の

タイトルが”Orchestral Manoeuvres in the Dark”(「暗闇で演奏する

オーケストラ団」という名)だったことからこの名を気に入り、当時

隆盛を極めていたニューウェーブのシンセポップ・ユニットとして

1979年、当時新興レコード会社だったヴァージン・レコードから

デビューする。

1980年にイギリスで『Enola Gay』(邦題:エノラ・ゲイの悲劇)がヒット

する。一部ではこの『Enola Gay』が同性愛者のラヴソングであると誤った

認識をされていた。日本のテレビ局では、ニュース番組「CNNデイウォッチ」

のテーマ曲として使用された。

同年『Maid Of Orleans』(邦題:オルレアンの少女)もヒットし、イギリス

で着実にヒットを飛ばし続ける。

1985年にはMTVを通じて、その旋風がアメリカにも飛び火し『Secret』

(日本語がビルボードホット100で100位にチャートインすると、同年

『So In Love』がビルボードホット100でTOP40となる。翌年1986年には

『If You Leave』がビルボードホット100でTOP10ヒットとなり、この他にも

『Forever(Live and Die』)も全米TOP40ヒットとなり、これらの曲を収録

したアルバム『Crush』と『The Pacific Age』の2枚はプラチナ・アルバム

に輝いた。

1988年にはコンピレーションアルバム『The Best of OMD』をリリース。

シングルとして『Dreaming』をリリース。ビルボードホット100で16位に達し、

アメリカでの成功を収める。

1988年、アメリカツアー終了後、創設者のひとりポール・ハンフリースが脱退。

バンドは活動を休止する。

これを境にアメリカでの人気は衰えたが、1993年にはバリー・ホワイトの

『Love’s Theme』をサンプリングした『Dream Of Me』が本国イギリスで

ヒットした。

1996年、アルバム『Universal』をリリース。その後再び長い活動休止期間に

入る。

2006年、アンディ・マクラスキーとポール・ハンフリースの2人はバンドの

再結成にむけて集結。

2010年には14年ぶりとなる11thアルバム『History of Modern』がリリース

された。

 

 

Orchestral Manoeuvres In The Dark – Enola Gay

 

Orchestral Manoeuvres In The Dark – Electricity

 

Orchestral Manoeuvres In The Dark – Souvenir

 

Orchestral Manoeuvres In The Dark – If You Leave