毎日暑い日が続きます。
でも夏は短いから、できるだけ「楽」しんで
過ごしていこうと思う今日この頃です。
【食道楽】道を歩きがてら、おいしい食べ物屋さんを散策。
食べ歩きなどしてみるのもいい。
【行楽】たとえば、近隣の緑豊かな
公園に行き、木陰を見つけて持参のランチを
楽しんでみるのもいい。
【音楽】音を楽しむ。
それは、夏に涼やかさをもたらしてくれる
音楽であったり、
暑い夏を吹き飛ばすような、熱くエネルギッシュな
音楽であったり、
また、去りゆく夏を惜しむような感傷的な音楽で
あったりとさまざまです。
ということで前回に続き、夏に聴いてみたい
70~80年代に活動したソフトロック、AORのバンドや
アーティストをご紹介します!!
Rupert Holmes
Rupert Holmes(ルパート・ホルムズ)はアメリカの
シンガー・ソングライター。
1947年2月24日イギリスのチェシャー州、ノースウィッチに
生まれる。6歳の時ニューヨークに移住。
彼の両親は、アメリカ陸軍准尉でバンドリーダー、音楽教師、
兄のリチャードは、ニューヨーク市に拠点を置くNew York
Gilbert & Sullivan Playersの主要なオペラ歌手といった、
音楽の才能あふれる家庭で育った。
高校卒業後、マンハッタン音楽学校でクラリネットを学ぶ。
20代には、セッションミュージシャンとして活動。
1970年、The Cuff Linksのアルバムにもヴォーカルで参加。
また、ストリート・ピープルというスタジオ・バンドを結成、
1970年バブルガムの名曲『Jennifer Tomkins』をリリース。
ビルボード・ホット100で36位を獲得した。
1979年リリースのアルバム『Partners in Crime』からは、
シングル『Escape (The Piña Colada Song)』がカナダ、アメリカで
ナンバー・ワン・ヒットとなった。続くシングル『Him』はビルボード・
ホット100で6位を獲得した。また『Answering Machine』(32位)も
ヒットした。
Rupert Holmes – Escape(The Pina Colada Song)
真夏のビーチサイドで、お洒落なカクテル
ピナコラーダ飲んでみたい!!
Rupert Holmes – Him
『Him』は、愛する女性に裏切られた男性の心情を
歌っています。ー和訳はこちら-
『Answering Machine』は、お洒落でセンスの良い
アレンジが光る曲です。
Rupert Holmes – Answering Machine
Gino Vannelli
Gino Vannelli(ジノ・ヴァネリ)は、イタリア系カナダ人の
シンガー・ソングライター、ミュージシャン。
1952年6月16日、カナダ、ケベック州モントリオールで、
兄のジョー、弟のロスとの3人兄弟の二男として生まれる。
幼少からの彼の情熱は音楽に最大に向けられ、子供の頃より
パーカッションの演奏を始める。
15歳頃より曲を書き始め、高校の頃RCAレコードと契約。
1969年、ヴァン・エリー名義で『Gina Bold/Never Cry Again』を
リリース、高校卒業後はマギル大学で音楽の勉強を続ける。
1973年にジノ・ヴァネリとして『Crazy Life』でデビュー。
1978年『Brother to Brother』からのシングル『I Just Wanna Stop』は
弟のロス・ヴァネリが作った楽曲で、アメリカのビルボード・ホット100、
カナダのシングルチャートで第1位を獲得。
ジノ・ヴァネリは1976年と1979年、カナダのジュノー賞で
最優秀男性ヴォーカリスト賞を受賞した。
1981年リリースのアルバム『Nightwalker』からのシングル
『Living Inside Myself』はカナダのシングルチャートで第13位、
アメリカのビルボード・ホット100で第6位、アダルト・コンテンポラリー・
チャートで第5位となった。
Gino Vannelli – One Night with You
情熱的に、ファンキーに『One Night with You』を
歌いあげます。
Gino Vannelli – I Just Wanna Stop
『Powerful people』、『One Night with You』のソウル・ミュージック
から『I Just Wanna Stop』、『Living Inside Myself』のアダルト・
コンテンポラリー、『Black Cars』、『Hurts to Be in Love』の
シンセ・ポップと、ひとつのジャンルにとどまることなく
兄弟とともに素晴らしい音楽を生み出していく。
美しい声とルックスと類い稀な才能を併せ持った
アーティストだと思います。
Gino Vannelli – Hurts to be Love
Player
Player(プレイヤー)はアメリカのロックバンド。
イギリスのリバプール、エグバース出身のギタリスト、
Peter Beckett(ピーター・ベケット)は1970年頃パラディンと
いうプログレッシヴ・ロックバンドにベーシストとして参加。
1973年の終わり頃バンドは解散、ベケットは活動拠点を
カリフォルニア州ロサンゼルスに移し、Skybandというバンドに
参加する。1975年にバンドは解散。その後ロサンゼルスの
パーティーで会ったJohn Charles Crowley(J・C・クロウリー、
G,Key)と意気投合。Ronn Moss(ロン・モス、B,Vo)、
John Friesen(ジョン・フリーセン、Ds)とともに1976年、
プレイヤーを結成する。
1970年代、彼らは独特のエッジの効いたメロディック・ロック・
スタイルの音楽を探究し始めた。
1977年9月、セルフタイトルのデビュー・アルバム『Player』を
リリース。シングル『Baby Come Back』がビルボード・ホット100
で1位の大ヒットとなる。
バンドはスタジアム・ロックの最盛期、ジノ・ヴァネリや
ボズ・スキャッグスの1977年秋のツアーのオープニング・アクトを
つとめ人気を博した。
続くシングル『This Time I’m In It For Love』もビルボード・
ホット100で10位となる。
1978年、2ndアルバム『Danger Zone』をリリース。アルバムからの
シングル『Prisoner Of Your Love』もビルボード・ホット100で
27位に達した。『Silver Lining』も62位とマイナー・ヒットとなった。
しかし、1978年10月29日のフロリダ州マイアミ、ココナッツ・
グローブでのライヴ後、メンバー間の軋轢が一気に表面化し、
バンド内の雲行きがあやしくなっていく。
その後何とかおさまったが、バンドは1978年後半と1979年前半に
数回のライヴを行ったあと、主要メンバーのベケットが離脱。
バンドはレコード契約も失ってしまい、新たな契約を探すことを
試みたが果たせず、さらにもう一人の主要メンバーである
クロウリーがソロ活動に専念するため脱退してしまう。
一方で、ベケットはプレイヤーを継続するためにバンドに戻り、
他のメンバー、モス、フリーセンと、マイルズ・ジョゼフ
(G、2012年12月25日64歳で死亡)ラスティ・ブキャナン(Key)
を新たに迎え再出発する。
1980年『Room With A View』をリリース。シングル『It’s For You』
は、ビルボード・ホット100で46位に達した。
その後、ロン・モスが俳優活動のため離脱。
1982年リリースの『Spies Of Life』からはシングル
『If Looks Could Kill』がビルボード・ホット100で48位となる。
バンドは1982年に一旦解散する。
ベケットはソロアーティストとして活動。ジャネット・ジャクソン、
オリビア・ニュートン・ジョン、テンプテーションズや
ケニー·ロジャースなどのアーティストに曲を提供した。
1982から1988年の間、かつて在籍していたバンドの仲間である
スティーヴ・キプナー(Skyband、Tin Tin)との共同作業により、
ハート、サバイバー、ジャネット・ジャクソンなどのアーティストの
楽曲を手掛けた。
また、キプナーとプロジェクト・バンドThink Out Loudを立ち上げ、
1988年A&Mレコードからセルフタイトルのアルバムをリリースした。
1989年にはリトル・リバー・バンドに加入。8年以上にわたり
彼らとツアーした。
1991年には、ロック、ポップ、AORの曲を組み合わせた初の
ソロアルバム『Beckett』をリリースする。
クロウリーはカントリー・シンガーとして活動1988年
ソロ・アルバム『Beneath the Texas Moon』をリリース。
またソングライターとしても活動し、エミルー・ハリスやジョニー・
キャッシュ、スモーキー・ロビンソンなどのアーティストの
アルバムに曲を提供した。
プレイヤーはバンドとして公式には活動していなかったが、
ベケットとモスは提携して活動を続け、1995年8月、プレイヤーと
して日本にむけたアルバム『Electric Shadow』をリリースする
(1996年『Electric Shadow』のタイトルを変更し、通算5枚目となる
『Lost in Reality』をリリースする)。
1997年、ベケットとモスは新たにドラマーとしてバーリー・ドラモンド
(アンブロージア)、キーボーディストとしてトニー・シュート
(EX-リトル・リバー・バンド)、ギタリストとしてエリオット・イーストン
(カーズ)を迎え、再びプレイヤーとしての活動を開始した
(その後2003年に一旦活動休止するが、2007年に再び活動を
開始する)。
2013年、前作『Electric Shadow』から18年ぶりとなるアルバム
『Too Many Reasons』をリリースする。タイトルトラック
『Too Many Reasons』をはじめ『Man on Fire』、『I Will』、
『The Sins Of Yesterday』、『Kites』、『Baby Come Back』
(新バージョン)を収録。
バンドはオリジナル・メンバーのピーター・ベケットとロン・モスの
2人を中心に現在も活動中。
Player – Baby Come Back
『Baby Come Back』は、当時ビルボードチャートで
1位を獲得、32週間にわたりチャートにランクインした
大ヒット曲ということで、日本でもいたるところでこの曲が
流れていました。
改めて聴いてみると、やはり名曲はいつの時代も変わらず
いいものだな、としみじみ思います。
Player – Love in the danger zone
バンドは70年代後半活動のピークを迎え、日本では
『Baby Come Back』の大ヒット以降、名前を聞かなくなって
いきますが、コンポーザーとして優れた才能を持つ
ピーター・ベケットを中心に現在も活動を続ける実力派
ロックバンドです。
Player – Footprints in the Sand
Chicago
Chicago(シカゴ)は、60年代から活動を続けるアメリカの
ロックバンド。
1970年リリースのアルバム『Chicago』(ChicagoⅡ)には、
『Make Me Smile』(ビルボードホット100で9位)、
『25 Or 6 To 4』(4位)などのトップ10シングルが収録されて
いる。
1976年リリースの『Chicago X』からシングル・リリース
された『If You Leave Me Now』はオーストラリア、カナダ、
オランダ、イギリスのシングルチャート、全米ビルボード・
ホット100、アダルト・コンテンポラリー・チャートで1位となり、
バンド初のナンバーワン・ヒットとなった。シカゴはこの曲で
1977年のグラミー賞の最優秀ポップ・デュオ/グループ・
パフォーマンス賞を受賞した。
1977年『Chicago XI』からシングル・リリースされた
『Baby, What a Big Surprise』は、アメリカのビルボード
ホット100で4位となった。
これがテリー・キャスの、またジェームズ・ウィリアム・
ガルシオの最後のトップテン・ヒットとなった。
1978年、バンドは中心的存在であったテリー・キャス
(Terry Alan Kath、1946年1月31日-1978年1月23日)が
自動拳銃の暴発事故で急逝するという悲劇を乗り越え、
1969年のデビューからのプロデューサー、ジェームズ・
ウィリアム・ガルシオと決別、同年10月フィル・ラモーンとの
共同プロデュースによるアルバム『Hot Streets』をリリース。
その音楽もポップ・ロック、ディスコ、ジャズといった内容で、
従来のブラスロックから大きく方向転換したものとなり、
バンドの新しい時代の始まりとなった。
アルバムからは『Alive Again』(ビルボードホット100で14位)、
『No Tell Lover』(ビルボードホット100で14位、アダルト・
コンテンポラリー・チャートで5位)、『Gone Long Gone』(73位)
の3枚のシングルがリリースされた。
1981年、ビル・チャンプリン(サンズ・オブ・チャンプリン)が
加入。デイヴィッド・フォスターが新たなプロデューサーとして
迎えられる。
新たなレーベル、ワーナー・ブラザーズからリリースされた
アルバム『Chicago 16』は、アルバム全体を通し、シカゴの
ベーシスト、リード・ヴォーカリストであるピーター・セテラと
デイヴィッド・フォスターによるアダルト・コンテンポラリー
志向がみられる構成となっている。
シングル・リリースされた『Hard to Say I’m Sorry』は、
カナダ、スイスのシングルチャート、全米ビルボードホット100、
アダルト・コンテンポラリー・チャートで1位となった。以降、
バンドは時代の流行に合わせたソフト・ロックへと音楽性を
変えていく。
1984年リリースの『Chicago 17』は、ソロ活動のため脱退した
創設メンバーであるピーター・セテラの、最後のアルバムと
なった。
アルバムからは『Stay the Night』(ビルボードホット100で16位)、
『Hard Habit to Break』(3位)、『You’re the Inspiration』(3位、
アダルト・コンテンポラリー・チャートで1位)、『Along Comes a
Woman』(14位)のシングルがリリースされ大ヒットした。
アルバムはRIAAでマルチ・プラチナに認定され、バンドの歴史上で
最大のセールスを誇るアルバムとなった。
1985年9月、脱退したセテラの後任としてベーシスト/シンガー・
ソングライターのジェイソン・シェフが加入(エルビス・プレスリーの
ツアーバンド、TCBバンドのベーシスト、ジェリー・シェフの息子)。
1987年リリースのアルバム『Chicago 18』からは『Will You Still
Love Me』(ビルボード・ホット100で3位、アダルト・コンテンポラリー・
チャートで2位)、『If She Would Have Been Faithful…』
(ビルボード・ホット100で17位)などのシングルがヒットした。
ならびに新しいバージョンの『25 or 6 to 4』はMTVでオンエア
され話題となった。
1988年『Chicago 19』をリリース。アルバムからシングル
『I Don’t Wanna Live Without Your Love』(ビルボード・ホット100で
3位)、『We Can Last Forever』(55位)、『Look Away』(1位)、
『What Kind of Man Would I Be?』(5位)、『You’re Not Alone』
(10位)がリリースされた。
このアルバムを最後に、20年もの間バンドで活動した創設
メンバーのダニー・セラフィーヌがバンドを脱退した。
シカゴはアメリカでのビルボード・アルバム・チャートの達成は
ビーチボーイズに次ぐ成功をおさめ、シングルやアルバムの
売上げは世界中で1億枚以上を超え、アメリカのバンドの中で最も
長く続く最も成功したロック・グループの一つである。
現在のメンバー
・Robert Lamm(ロバート・ラム、Key、G、Vo. 1967-)
・Lee Loughnane(リー・ローナン、Trumpet、G、
Percussion、Vo. 1967–)
・James Pankow(ジェームズ・パンコウ、Trombone、
Percussion、Key、Vo. 1967–)
・Walter Parazaider(ウォルター・パラゼイダー、Woodwinds、
Backing vo. 1967–)
・Jason Scheff(ジェイソン・シェフ、B、Vo. 1985–)
・Tris Imboden(トリス・インボーデン、Ds、Percussion. 1990–)
・Keith Howland(キース・ハウランド、G、Vo. 1995–)
・Lou Pardini(ルー・パーディニ、Key、Vo. 2009–;
touring–1999、2007)
・Walfredo Reyes, Jr.(ウォルフレッド・レイエス Jr.、
Percussion. 2012–)
Chicago – If You Leave Me Now
ロックにブラスを取り入れたサウンドは、当時斬新で
異彩を放っていたことと思います。
シカゴの曲はどれも好きですが、特にお気に入りの曲は
『25 or 6 to 4』、『Saturday In The Park』、
『If You Leave Me Now』です。
『25 or 6 to 4』のイントロの、あの印象的なフレーズを
初めて聞いたときの衝撃は忘れられません。
Chicago – Hard To Say I’m Sorry
『If You Leave Me Now』、『Hard To Say I’m Sorry』は、
アダルト・コンテンポラリーの歴史に残る名曲です。
Chicago – Will You Still Love Me
Steely Dan
Steely Dan(スティーリー・ダン)は、アメリカのジャズ
ロックバンド。
バンドというよりはウォルター·ベッカー(B,G)と
ドナルド・フェイゲン(Vo,Key)のユニットというほうが
近い。
1968年にバード大学で出会ったウォルター·ベッカーと
ドナルド・フェイゲンは、共通の音楽の趣味があることを
発見、一緒に曲を書き始めた。
その後2人はレザー・カナリアというカヴァーバンドを結成。
地元のライブハウスなどでローリング・ストーンズなどの
カヴァーやいくつかのオリジナル曲を演奏していた。
そのバンドメンバーにはドラマーとしてチェビー・チェイスが
在籍していた。
フェイゲンは1969年に大学を卒業後、ベッカーとともに
ブルックリンに移動。2人は自分たちのつくった曲をマンハッタン
の中心部にあるブリル・ビルディングに切り売りしていた。
そこで彼らの音楽に興味を持ったケニー・ヴァンスは、彼らの
マネージメントを申し出る。
2人はJay & The Americansのツアーメンバーとして、1970年から
1971年までの一年半、ツアーに参加する。
また、リチャード・プライアーの低予算のコメディ映画
『You’ve Got to Walk It Like You Talk It or You’ll Lose That Beat』
のサウンドトラックのプロデューサーとして起用される。
ベッカーは後に「それらのことはお金のためにやった」と
ぶっきらぼうに語っている。
しかし、1969年にブルックリンに移動してからというもの、
彼らは少しずつ成功をおさめるようになる。
1971年、バーブラ・ストライサンドのアルバム『Barbra Joan
Streisand』に彼らの楽曲『I Mean to Shine』を提供し、
レコーディングに参加する。彼らはケニー・ヴァンスの友人の
一人で、プロデューサーのゲイリー・カッツに認められ、
ABCレコードのソングライター、製作スタッフとして雇われた
2人はロサンゼルスに移動する。
彼らのつくる楽曲は、ABCレコードの他のアーティストには
あまりにも複雑すぎると悟ったカッツは、2人にバンドをつくるよう
提案する。
彼らはメンバーを募集、デニー・ディアス(G)、ジェフ・バクスター
(G)、ジム・ホッダー(Ds、1990年6月5日、42歳で死去)を迎える。
しかし、自分の声に自身が持てず、ステージ・フライト
(ステージ、舞台などであがること)で苦しんでいたフェイゲンは、
ライブで自分がリード・ヴォーカルとして歌うのを嫌がったため、
2人目のリード・ヴォーカリストとしてデイビッド・パーマーを
迎える。
バンド名もスティーリー・ダンとしABCレコードと契約を締結、
1972年に活動を開始する。以降、1970年代の彼らのすべてのアルバム
はゲイリー・カッツとエンジニアのロジャー・ニコルズがかかわって
おり、6つのグラミー賞を獲得することとなる。
ゲイリー・カッツのプロデュースでデビュー・アルバム
『Can’t Buy a Thrill』をリリース。アルバムからのシングル
『Do It Again』、『Reelin’ In the Years』は大ヒットとなった。
初のツアーの間に、フェイゲンの声を好んでいたカッツと
ベッカーは、リードヴォーカルを引き継ぐようフェイゲンを
説得した。そしてセカンド・アルバムをレコーディングする間、
デイビッド・パーマーは静かにバンドを去った。
1973年にリリースした『Countdown to Ecstasy』はデビュー・
アルバムほどの成功に達していなかった。
ベッカーとフェイゲンは、このアルバムの演奏の幾つかに不満を
抱いており、またツアーがあったため急いでレコーディングされた
ことで、それが商業的成功につながらなかったと信じていた。
2人はスタジオ制作に専念するようになり、アルバムの完成度
を高めるため、外部から多くのセッション・ミュージシャンを
雇い、時折、各トラックに何テイクもレコーディングするよう
ミュージシャンに頼んでいた。
しかし、ツアーをやりたかったバクスターとホッダーは、
ツアーを嫌いスタジオでの制作に専念したかったベッカーと
フェイゲンに落胆する。また、多くのセッション・ミュージシャン
を雇うことにより、メンバー間に軋轢が生じる。
1974年『Pretzel Logic』リリース後、バクスターとホッダーが
バンドを脱退。以降、ベッカーとフェイゲンの2人によるアルバム
制作中心の活動となり、外部からセッション・ミュージシャンを
雇うという形式をとるようになる。
1975年リリースの『Katy Lied』よりセッション・ミュージシャン
としてマイケル・マクドナルドが参加する(デニー・ディアスは
『Aja』(1977年)まで、マイケル・マクドナルドは『Gaucho』
(1980年)まで参加していた)。
また、完璧主義で知られているベッカーとフェイゲンは、
1980年リリースした『Gaucho』は、わずか7曲のアルバムを、
少なくとも42人のスタジオ・ミュージシャンと11人のエンジニアを
雇い、1年かけてレコーディングしたという。
バンドは最大のヒットとなった『Rikki Don’t Lose That Number』
(ビルボードチャート4位)をはじめ『Do It Again』(6位)、
『Reelin’ In the Years』(11位)、『Peg』(11位)、『Deacon Blues』
(19位)、『Hey nineteen』(10位)など、数々のシングル・ヒット
を飛ばした。
バンドは1981年に解散、1993年に再結成される。
2000年にリリースされた『Two Against Nature』は、その年の
グラミー賞を受賞した。
彼らは世界中で4000万枚以上のアルバムを販売。2001年3月には
ロックの殿堂入りを果たした。
2003年には『Everything Must Go』をリリース。
2010年、ドナルド・フェイゲン、マイケル・マクドナルド、
ボズ・スキャッグスの3人はスーパーグループ、The Dukes of September
(ザ・デュークス・オブ・セプテンバー)を立ち上げた。
これはコンサート・プロデューサー、シンガーソングライターのリビー・
タイタス(ドナルド・フェイゲンの現在の妻)とドナルド・フェイゲンが
中心となり1989年から1992年まで続いた以前の音楽プロジェクトの復活
で、マイケル・マクドナルド、ボズ・スキャッグス、フィービ・スノウ
(1950年7月17日 – 2011年4月26日)、エディ・ブリガッティ(ラスカルズ)
が参加していた。
※追記 2017年9月3日、ウォルター・ベッカーはニューヨーク、
マンハッタンの自宅で食道がんのため死去した。67歳。
Steely Dan – Do It Again
『Can’t Buy a Thrill』からのシングル『Do It Again』は、
バンド至上2番目の大ヒットとなりました。
『FM』は1978年の映画「FM」のサウンドトラックからの
タイトル曲。この楽曲はバンドの歴史に残るヒットと
なりました。
Steely Dan- FM
1977年リリースの『Aja』からの大ヒット曲『Peg』。
写真家の藤井秀樹によるアルバムカバーは、
日本が誇るアジアンビューティー、モデルの山口小夜子
(2007年8月14日に肺炎で57歳で亡くなった)です。
Steely Dan – Peg
Bobby Caldwell
Bobby Caldwell(ボビー・コールドウェル)は、アメリカの
シンガー・ソングライター、ミュージシャン。
1951年8月15日ニューヨーク、マンハッタン生まれ。
彼の両親(ボブとキャロリン・コールドウェル)が「Suppertime」
というTVバラエティ番組のホストをしていたことも関係してか、
彼のショー・ビジネスへの進出はごく自然なことであった。
幼少期からピアノ、12歳でギターを始める。
17歳で自身のバンドを結成し、地元のクラブなどで
ジミ・ヘンドリックスとクリームのカヴァーを演奏していた。
彼はマイアミのレーベル、TKレコードと契約。
1978年、自身の名を冠したデビューアルバム『Bobby Caldwell』
をリリース。『Special To Me』、『My Flame』、『Can’t Say
Goodbye』、『Down for the Third Time』を収録。
『What You Won’t Do for Love』(邦題:風のシルエット)の
シングルがリリースされ、アルバムはビルボード200で21位に
達した。
当時、ディスコ・ミュージックやR&Bが流行していたため、
経営陣は戦略としてあえてラジオ形式を取り、アルバム・
ジャケットもシルエットのみのデザインで、彼が白人であることを
伏せて売り出した。だが、それも彼の最初のライブ出演によって
白日の下に晒すこととなった(1980年リリースの『Cat in the Hat』
のアルバムデザインは彼自身の横顔写真となっている)。
だが、このアルバムのリリース直後、TKレコードが倒産。
思うようにプロモーションもできなかったため、80年以降の
本国アメリカでのアルバムセールスは伸び悩む。
だが、当時AOR(日本ではアダルト・オリエンテッド・ロック)が
流行していたこともあり、彼は日本での人気を獲得する。
デビュー・アルバム『Bobby Caldwell』(邦題:イヴニング・
スキャンダル)と、2ndアルバム『Cat in the Hat』
(邦題:ロマンティック・キャット)、1988年リリースの
5thアルバム『Heart of Mine』は日本でプラチナ・ディスクに
認定された。
そして80年代にリリースしたアルバムは日本で人気を博し、
いずれもゴールド・ディスクに認定されている。
1983年、アルバム『August Moon』は日本のみのリリースと
なった(アメリカでは1990年にリリースされた)。
マルチ・プレイヤーであり、またソングライターとしても優れた
才能を持っている彼は、ボズ・スキャッグスに『Heart of Mine』、
ピーター・セテラに『Next Time I Fall』、『Stay with me』
(映画『竹取物語』主題歌)などの楽曲を提供、その他多くの
アーティストに楽曲を提供している。
これらの楽曲は1989年にアルバム『Heart of Mine』で自身でも
リリースしている。
また収録曲『Come To Me』や『Heart of Mine』、『Stay With Me』
などの楽曲は、1990年代にオンエアされたパーラメント(アメリカの
たばこ)のCMに使用された。
Bobby Caldwell – What You Won’t Do for Love
80年代、彼の音楽は「トワイライト・ポップ」という
ネーミングで呼ばれ、日本のリスナーに親しまれました。
ポップでお洒落な彼のセンスあふれる音楽は、ニューヨークから
日本に向けて、素敵な贈り物となって届きました。
Bobby Caldwell – Special To Me
1990年代にオンエアされたパーラメントのCMの、ニューヨークの
夜景をバックに流れる『Heart of Mine』がとても印象的でした!!
Bobby Caldwell – Heart Of Mine
Boz Scaggs
Boz Scaggs(ボズ・スキャッグス、本名:William Royce Scaggs,
1944年6月8日-)は、アメリカのミュージシャン。1970年代後半
から1980年代にかけて流行した、アダルト・コンテンポラリーを
代表するシンガー。
1976年リリースのアルバム『Silk Degrees』は、後にTOTOを結成した
デヴィッド・ペイチ、デヴィッド・ハンゲート、ジェフ・ポーカロを
セッション・ミュージシャンとして起用し、ジョー・ウィサートが
プロデュースを担当した。
『Silk Degrees』はグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに
ノミネートされ、さらにウィサートがプロデューサー・オブ・ザ・
イヤーにノミネートされた。
このアルバムはビルボード200で2位、他の多くの国で1位となり、
アルバムから4つのヒットシングル『It’s Over』(38位)、『Lowdown』
(3位)、『What Can I Say』(42位)、『Lido Shuffle』(11位)を
生み出し、500万枚以上のセールスを記録。マルチ・プラチナに輝いた。
アルバムに収録されている『We re all alone』は、リタ・クーリッジが
カヴァーし大ヒットした曲で、彼の代表作となった。現在も多くの
アーティストによってカヴァーされている。『Lowdown』は、アメリカで
100万枚以上のセールスを記録し1977年グラミー賞の最優秀R&Bソング賞を
受賞した。
ワールド・ツアーはソールドアウトが続いたが、フォローアップ・アルバム
『Down Two Then Left』は『Silk Degrees』ほど売れず、シングル
『Hard Times』(58位)、『Hollywood』(49位)はどちらも
ビルボードホット100でトップ40に達しなかった。
しかし、1980年リリースの『Middle Man』は2つのトップ20ヒット
『Breakdown Dead Ahead』(15位)、『Jojo』(17位)を生み出した。
また、1980年リリースの『Hits!』に収録の
はデヴィッド・フォスターとの共作で、映画『アーバン・カウボーイ』の
サウンドトラックとして使用され、デヴィッド・ペイチによって書かれた
『Miss Sun』とともに2つのトップ20ヒット(14位)に達した。
その他、『Lowdown』、『Lido Shuffle』、『We’re All Alone』、
『Breakdown Dead Ahead』、『Jojo』、『You Can Have Me Anytime』
などのヒット曲を収録。
アルバムはRIAAによりプラチナ認定された。
Boz Scaggs – Hard Times
そのたたずまいからして、理屈抜きでカッコイイ!!
どんな時でも、洗練された大人の色気を感じる
シンガーといったら、真っ先に思い浮かぶのは
ボズ・スキャッグスでした。
Boz Scaggs – Jojo
彼以外に、白いスーツをここまでカッコよく着こなせる男性は
いない!!と、勝手に確信している私です。
Boz Scaggs – You Can Have Me Anytime