80s New Wave / Synth-pop – Ⅲ

 

 

 

 

今回は「80s New Wave / Synth-pop – Ⅱ」の続編として、

80年代に活動した、イギリスのシンセポップバンドを

ご紹介します。

 

 

 

 

 

Yazoo

Yazoo(ヤズー)は、イギリスのシンセポップデュオ。

1981年、イギリスのエセックスで現イレイジャーのVince Clarke

(ヴィンス・クラーク )とAlison Moyet(アリソン・モイエ vo)によって

結成された。

イギリスではMute Records(ミュート・レコード)と契約、アメリカではYazの

名前でSire Recordsと契約した。 ヤズーのデビューシングル『Only you』は

イギリスのチャート2位の大ヒットとなり、その後、2枚のスタジオアルバムを

リリースした。

 

 

ヴィンス・クラークは1960年7月3日生まれ、イギリスのロンドン出身。

キーボード担当。以前はDepeche Mode(デペッシュ・モード)の結成メンバーで

あり、作詞・作曲を手がけていた。アリソン・モイエは1961年6月18日生まれ、

イギリスのエセックス出身。このデュオは、クラークがイギリスの音楽雑誌に

掲載されたモイエの広告に反応した後、1981年後半に結成されたが、

2人は学生時代からお互いを知っていた。

デュオは2枚のアルバム『Upstairs at Eric’s』と『You and Me Both』を

リリースし、特にクラークのシンセサイザーのメロディーとモイエの

ブルースとソウルの影響を受けたヴォーカルのブレンドで批評家の称賛を

受けた。 ヤズーは、特にイギリスで世界的な成功を収め、4つのシングルの

うち3つがイギリスのシングルチャートのトップ3に達し、両方のアルバムが

アルバムチャートのトップ2となった。北アメリカでは、彼らは『Situation』と

いう曲で知られている。この曲は、もともとイギリスではB面にすぎなかったが、

バンドのデビューとしてリリースされる前に、アメリカとカナダでクラブと

ラジオでのオンエアで成功を収めた。

彼らはその成功にもかかわらず、クラークがヤズーの名前でより多くのレコードを

作ることに消極的であったこと、および2人の間の衝突、コミュニケーションの

欠如が重なった結果、1983年5月に分裂した。

 

 

クラークは、もう1つの成功したシンセポップ・デュオであるErasureを結成し、

モイエはソロ キャリアに乗り出した。彼らの音楽キャリアは短かったが、

ヤズーの電子楽器とソウルフルな女性ボーカルの組み合わせは、1980年代半ばに

出現したハウス・ミュージックシーンや、Hercules and Love Affair

(リーダーのアンディ・バトラーは『Situation』が子供の頃の彼の音楽的

インスピレーションだったと語っている)、La Roux、Shiny Toy Guns、

Blaqk Audioなどの LCD サウンドシステムなどのバンドに影響を与えたと

されている(デビューシングル『Losing My Edge』)。

分裂から25年後の2008年、クラークとモイエは和解しヤズーを再結成、ヤズーの

2枚のスタジオアルバムの再リリースと『In Your Room』というタイトルの

ボックスセットをサポートするために、イギリス、ヨーロッパ、北アメリカの

ツアーを成功させた。

2人は2011年5月に一時的に再会し、レコードレーベルが主催する音楽祭でヤズーの

3曲を演奏した。

 

 

Yazoo – Only you

 

Yazoo – Don’t Go

 

Yazoo – Situation

 

Yazoo – Nobody’s Diary

 

 

 

 

 

Soft Cell

Soft Cell(ソフト・セル)は、イギリスの音楽ユニット。

メンバーはマーク・アーモンド(vo)とデイヴ・ボール(Key)。

二人とも出身はイングランド北西部にあるランカシャー州であるが、

違う町で互いに過ごした。彼らが出会ったのはランカシャーから

遠くはない地方都市リーズのアートスクールに通っていた1978年の

ことで、このリーズでソフト・セルは結成された。

当時、最先端のアンダーグラウンド音楽だったスロッビング・

グリッスルやキャバレー・ヴォルテールなどの影響を受けていた二人は、

もう一つの彼らの共通のルーツであったノーザン・ソウルの要素を

文学的な歌詞にのせてノイジーなエレクトロニクスに取り込むという

斬新なスタイルでリーズを中心に活動していた。

最初のリリースは1980年10月の『Mutant Moments e.p.』と呼ばれる

4曲入り7インチ・シングルで、これはデイヴが母親から借りた金で

制作され、2000枚プレスされた。海賊版もあるが入手が困難なコレクターズ・

アイテムになっている。

この頃、彼らの存在に注目していたのがロンドンのキングスロードにある

チェルシー・ドラッグストアで月曜日のレジデントDJをやっていた

スティーヴォ・ピアース(Stevø)だった。

左官職人の家に生まれた彼はフォノグラム・レコードの仕事を手伝いながら

DJとしても活動しており、イギリスの各地から送られてくる無名バンドの

デモテープから気に入ったものを勝手にチャートにして、当初は

『Record Mirror』誌で発表していた。

その後『Sounds』に引き継がれるが、ソフト・セルもその中で取り上げられる

ことになった。しかし、実際に聴く機会のない音楽のチャートを紹介することに

スティーヴォは疑問を感じ始め、自費でコンピレーション・アルバムを

リリースすることを思いつく。このアルバムは『Some Bizzare Album』という

タイトルで1981年にリリースされたが、無名のバンドばかりだったにも関わらず、

最初の2000枚を完売して話題になった。

ソフト・セルは2トラックの簡単なレコーダーで自宅録音しただけの楽曲

『The Girl With A Patent Leather Face』でこのコンピレーション・アルバムに

参加している。『Some Bizzare Album』にはのちにミリオンセラーを出すが

当時はまだ無名だったザ・ザやデペッシュ・モード、ブラマンジェなどが

参加しており、スティーヴォの先見性を物語っている。

ミュート・レコードのオーナー、ダニエル・ミラーはロンドンでソフト・セルが

活動するために重要な役割を果たしたシングル『A Man Can Get Lost』と

『Memorabilia』をプロデュースする。

特に『Memorabilia』は当時のクラブシーンである程度の成功をおさめ、

ソフト・セルの名前はロンドンでも徐々に浸透し始めた。

 

 

1981年、グロリア・ジョーンズの1964年のカヴァー曲『Tainted Love』は

大ヒットし、イギリスのシングルチャートで1位、ビルボードチャートで

8位に達し、43週間チャートにとどまった。

1981年にマイク・ソーンのプロデュースによる『Non-Stop Erotic Cabaret』が

リリースされ、平凡な都会生活に対するストレスなどを題材に、同性愛、

ドラッグなどの裏社会的なエッセンスを取り入れた退廃的・文学的な歌詞、

そして新鮮なエレクトロニック・サウンドとソウルフルなマークのヴォーカルと

いう、それまでのエレポップ系アーティストにはなかった人間くさい曲が

特徴的なアルバムとなっている。

 

 

1982年、ダンス・バージョンのミニ・アルバム『Non-Stop Ecstatic Dancing』を

リリース。プロデュースは同じくマイク・ソーン。『Memorabilia』は

ヴォーカルも再録され、よりダンサブルなミックスに仕上がっているほか、

『A Man Can Get Lost』は『A Man Could Get Lost』と名を変え、インスト・

バージョンになっている。

シングルにもなった『What!』(イギリスのチャートで3位)もまた

『Tainted Love』の作曲で知られるFour PrepsのメンバーだったEdd Cobの

カヴァー。『Where Did Our Love Go』はスプリームスの大ヒット曲のカヴァー。

ファースト・アルバムより全体的によりダンサブルでキャッチーに仕上がって

いるが、『Sex Dwarf』のリミックスは放送コードにひっかかる過激な内容に

なっている。

1982年にリリースされた『Soft Cell’s Non-Stop Exotic Video Show』は、

彼らの貴重な姿が見られるビデオクリップ集。途中でスティーヴォが

当時ロンドンのソーホーにあったSome Bizzare Recordsの事務所で話す

映像が写っている。なお『Sex Dwarf』のプロモ・ビデオは収録されて

いない。

1983年、2ndアルバム『The Art of Falling Apart』をリリース。

エレポップ路線のサウンドは影を潜めるが、実際にはドラムもリン・

ドラムを使ったサンプリングの打ち込みであり、全体にわたって

シンセサイザーを多用していて生楽器の登場回数は少ない。

しかし全体的には生楽器のようなオーガニックな印象を受ける。

アルバムからのシングル『Where The Heart Is』は子供の目線から語られる

家庭の不和と両親のエゴを、ストリングス風の美しいシンセサイザーの

音色をバックにマークが哀愁たっぷりに歌い上げているのだが、

マークの母親はこの曲があまり好きでないらしいことをインタビューで

語っている。またこのシングルはクリスマスにリリースされたため、

あまりヒットしなかった。

 

 

1984年、3rdアルバム『This Last Night in Sodom』をリリース。

マルキ・ド・サドジョルジュ・バタイユなどの背徳文学の世界を

ジョニー・サンダース的なニューヨーク・パンクの退廃感と織り交ぜ、

さらにニュー・ウェイヴへと昇華させた。

全体的にモノラルで録音されており、相変わらず打ち込みであるにも

かかわらず、広がりのない音がまるでガレージ録音のような荒さを

醸し出している。オルガンやエレキ・ギターなど、シンセサイザー

以外の楽器を多用している。この後、ソフト・セルは解散する。

 

 

1984年の解散からマークはマーク・アンド・ザ・マンバス、そして

ソロ活動へと移行していき、一方、ボールはソロ・アルバムを出した後

ユニット「ザ・グリッド」を結成、一時解散したが再結成し現在も

活動している。

2001年、ソフト・セルは再結成を果たした。そもそも1991年に「マーク・

アーモンド・フィーチャリング・ザ・グリッド」という形で一時的に

再結成し、マークのアルバムで数曲競演していたが、その後はあまり

目立った活動はなかった。しかし2001年に17年のブランクを経て

ソフト・セルとしての再出発がようやく実現した。

現在は主だった活動はしていない。

2002年再結成から初のアルバムをリリース。解散のブランクの間に彼らは

互いにダンス・ミュージックへの興味を深めていたことで、再結成後の

作品はどれもテクノやトランスの要素が強い。文学的なマークの歌詞は

健在だった。

このアルバム発表後、イギリス国内を含んだヨーロッパツアーを行った。

2018年、結成40周年を迎えO2で「最後」の再結成ライヴを実施。

翌2019年、ライブの模様を収録した音源や映像ソフトが発売された。

 

 

Soft Cell – Torch

 

Soft Cell – Tainted Love

 

Soft Cell – Say Hello, Wave Goodbye

 

Soft Cell – Soul Inside

 

 

 

 

 

 

The Fixx

The Fixx(フィクス)は、イギリスのロックバンド。

1979年にロンドンで結成された。

アメリカのシングルチャートトップ20入りを果たした『One Thing Leads to Another』、

『Saved by Zero』、『Are We Ourselves?』、『Secret Separation』などの

ヒットで知られる。このほかにも『Red Skies』や『Stand or Fall』など、

1980年代前半にヒット曲を連発し、『Deeper And Deeper』は1984年の映画

『ストリート・オブ・ファイヤー』のサウンドトラックにも採用された。

 

 

1979年、ロンドンで大学時代の友人であるCy Curnin(サイ・カーニン vo)と

Adam Woods(アダム・ウッズ Ds)により結成された。

当初はPortraitsと名乗っていた。 2人は追加メンバーの広告を掲載し、

キーボーディストのRupert Greenall(ルパート・グリーンオール)、

ギタリストのTony McGrail(トニー・マクグレイル)、ベーシストの

Russell Mckenzie(ラッセル・マッケンジー)が加入。ベースは後に

Charlie Barrett(チャーリー・バレット)に交代した。

PortraitsはAriola Recordsから2つのシングル『Little Women』(1979) 、

『Hazards In The Home』 (1980)をリリースした。

1980年、マクグレイルの脱退に伴いフィリップ・ランボウのバンドに在籍

していたJamie West West-Oram(ジェイミー・ウェスト・オーラム、

単にジェイミー・ウェストと呼ばれていた)を新たなギタリストとして迎え、

バンド名をフィクス(The Fix)に変更した。

1981年2月に101 Recordsから初のシングル『Lost Planes』がリリースされた。

この曲は101 Recordsによりライヴ版と共に様々なコンピレーション・

アルバムに収録されたほか、BBCラジオでもオンエアされた。これにより

知名度が上がり、大手のMCAレコードからオファーを受けるに至った。

契約に際しMCAは、バンド名がドラッグ常習者を連想させる点を憂慮し

変更を提案したが、バンドが難色を示したため綴りを「Fix」から「Fixx」に

変更する妥協案で合意した。

 

 

1982年、ファーストアルバム『Shuttered Room』をリリース。アルバムから

『Stand or Fall』、『Red Skies』がシングルとしてリリースされた。

ミュージックビデオはMTVでフォローされ、アメリカ、イギリス、カナダで

チャート入りを果たした。

レコーディング完了後に脱退したバレットに代わり、ツアー要員として

Alfie Agius(アルフィー・アギウス)が採用された。セカンドアルバム

『Reach the Beach』のレコーディングにも参加し、『Saved by Zero』、

『Liner』の作曲者としてクレジットされたが、アギウスはバンドの

正式メンバーからは外れ、ヘヴィメタルバンドFastwayのツアーに同行した。

シングル『Saved by Zero』、『One Thing Leads to Another』では

アギウスがベースを担当、翌年リリースのシングル『The Sign of Fire』では

後に正式メンバーとなるダン・K・ブラウンが演奏した。

バンド最大のヒットとなった『Reach the Beach』は1984年1月5日、RIAAに

よりプラチナディスクに認定された。

 

 

1984年のサードアルバム『Phantoms』からはシングル『Are We Ourselv

es?』、『Sunshine in the Shade』ヒットし、当初『Are We Ourselves?』の

B面扱いだった『Deeper And Deeper』も後にシングルリリースされた。

この曲は映画『ストリート・オブ・ファイヤー』のサウンドトラックに採用

されたのも手伝い、アメリカやカナダのラジオでパワープレイされた。

1985年、バンドは『A Letter to Both Sides』をレコーディングし、

映画『フレッチ/殺人方程式』のサウンドトラックに提供した。

1986年、4thアルバム『Walkabout』をリリース。アルバムからのシングル

『Secret SeparDeeper』、『Built for the Future』がヒットする。

1987にはスタジオ作品とライヴ音源を収録したコンピレーション・アルバム

『React』をリリースした。

1989年、RCAレコードより、スタジオアルバムとしては3年振りとなる

『Calm Animals』がリリースされた。 シングル『Driven Out』は、

ビルボードホット100で55位に達し、メインストリームロックチャートで

1位に達した。もう1つのシングル『Precious Stone』はメインストリーム

ロックチャートで23位に達した。『React』はRCAレコードからのバンドの

唯一のアルバムでもあった。

 

 

1991年にはMCAに戻り、6thアルバム『Ink』をリリース。シングル

『How Much Is Enough?』はビルボード・メインストリームロックチャートで

11位、モダンロックトラックチャートで10位に達した。

1994年ブラウンが脱退したが正式メンバーを補充せずスタジオミュージシャンで

代用し、1995年から2000年頃まで主にクリス・テイトがアルバムやツアーで

ベースを担当した。

テイトまたは別のベーシストを加えた5人体制でアルバム『Elemental』

(1998)、『1011 Woodland』(1999)がリリースされた。

『1011 Woodland』には過去のヒット曲の再録音版やライヴ版が収録された。

2002年、バンドは60年代から90年代のヒット曲をカヴァーしたコンピレーション・

アルバム『When Pigs Fly (Songs You Never Thought You’d Hear)』に参加し、

ナンシー・シナトラの『These Boots Are Made for Walkin’』を演奏した。

このアルバムにはほかにディーヴォやビリー・プレストンらが参加した。

2003年リリースの9thアルバム『Want That Life』には、ベーシストとして

Gary Tibbs(元ロキシー・ミュージック、アダム&ジ・アンツ)が参加した。

2008年ベースにブラウンが復帰するとバンドは、25周年記念として2枚組の

コンピレーション・アルバム『Twenty-fifth Anniversary Anthology』を

リリース。1980年代のメンバー構成に戻ったフィクスは2012年、アルバム

『Beautiful Friction』をリリースしワールドツアーを開始した。

 

 

The Fixx – One Thing Leads To Another

 

The Fixx – Red Skies

 

The Fixx – Stand or Fall

 

 

 

 

 

Visage

Visage(ヴィサージ)は、イギリスのシンセポップ・グループ。

ロンドンでナイトクラブを経営していたスティーヴ・ストレンジが

中心となり結成された。ニューロマンティックの発祥のバンドとして

名が高い。

ニューロマンティックは彼が主宰していたクラブ・ビリーズで開催

されていたデヴィッド・ボウイ・ナイトを発祥とする。

グループ名はヴィジュアル(Visual)、ビザ(Visa)、AGEの三つの

言葉をかけあわせたもの。

 

 

ナイトクラブを経営する他にバンド活動をしていたスティーヴ・

ストレンジと、リッチ・キッズとして活動していたラスティ・イーガン、

ミッジ・ユーロの3人を母体として結成された。

そこにウルトラヴォックスのキーボーディストであるビリー・カーリー、

マガジンのジョン・マッギオーク、デイヴ・フォーミュラ、バリー・

アダムソン(デビューシングルリリース後に脱退し、セッションメンバーと

して参加)が加入する。

1980年、ポリドール・レコードより1stアルバム『Visage』をリリース。

同時期にリリースされたシングル『Fade to Grey』は、ドイツとスイスで

1位を獲得するなど、バンドは一躍注目を集めた。

1981年に入り、ストレンジは次のアルバムを制作しようとしたが、マッギオークが

スージー・アンド・ザ・バンシーズに加入するためバンドを脱退し、また

それぞれのメンバーのバンド活動が活発になり、制作のスケジュールが付け辛い

状態となる。

1982年、2ndアルバム『The Anvil』をリリース。イギリスのチャートで6位に

達した。この時点でユーロがウルトラヴォックスでの活動に専念するため

バンドを脱退し、この頃レコード会社との契約上の問題が発生し2年間活動を

休止する。

1983年11月にベスト・アルバム『Fade to Grey – The Singles Collection』を

リリース。イギリスで38位に達した。

1984年、契約上の問題が解消し新作の製作を開始するも、レコーディング開始

間もなくカーリーとフォーミュラが脱退し、新メンバーを募って制作を継続。

10月に3rdアルバム『Beat Boy』をリリースするが商業的・批評的に失敗に

終わり、バンドは1985年に解散する。

2002年、長年に亘るヘロイン中毒と私生活上の問題を乗り越え、ストレンジは

80年代に活躍したアーティストによるコンサートツアー「Here and Now Tour」に

参加し、ヴィサージ時代の曲を歌った。

ストレンジはエレクトロニックアーティストとヴィサージを再始動させようと

計画する。SeizeやGotekiというバンドのメンバーと共に新作の制作を計画したり

その後も様々なアーティストとコラボレートしながらヴィサージとしての活動を

模索する。

2010年に『Fade to Grey』の新ミックスを制作し3月発表のベスト・アルバム

『The Face – The Very Best of Visage』に収録。

2013年1月にストレンジはニュース番組に出演し、春に新作を出すことを発表した。

4月に自身のFacebookから新曲『Shameless Fashion』を無料ダウンロード配信し、

翌月にCDでリリース。同時期に4thアルバム『Hearts and Knives』をリリースし、

2013年の下半期の大半をイギリス・ヨーロッパツアーに費やした。

2014年12月、過去のヴィサージの楽曲をオーケストラ仕様で蘇らせた、その名も

『Orchestral』をリリース。

2015年2月12日、ストレンジが心臓発作によりエジプト・シャルム・エル・シェイクの

病院で55歳で亡くなったことが報じられた。

ストレンジの死から9か月後の2015年、最後のアルバム『Demons to Diamonds』が

リリースされた。

 

 

Visage – Fade To Grey

 

Visage – Mind of a Toy

 

Visage – Visage

 

Visage – The Damned Don’t Cry

 

 

 

 

 

Simple Minds

Simple Minds(シンプル・マインズ)は、スコットランドのロックバンド。

1977年、グラスゴーで結成された。

シングル『Don’t You (Forget About Me)』(1985)はビルボードホット100で

1位に達し、国際的に最もよく知られるようになった。

その他の商業的に成功したシングルには『Glittering Prize』(1982)、

『Somewhere in Summertime』(1982)、『Waterfront』(1983)、

『Alive and Kicking』(1985)、イギリスのナンバーワンシングル

『Belfast Child』(1989)などがある。

 

 

シンプル・マインズのルーツは、1977年初頭にグラスゴーのサウスサイドで

結成された短命のパンクバンドJohnny & The Self-Abusersにある。

8歳の時からの友人同士のジム・カー、チャーリー・バーチルと、

いままで仕事をしたことのなかったこの2人のミュージシャンとチームを

組みバンドに参加したJohn Milarky(ジョン・ミラーキー G, 1977)は、

カー、バーチルの学校の友達であるBrian McGee(ブライアン・マッギー

Ds, 1977–1981, 1996)、Tony Donald(トニー・ドナルド B,1977–1978)

(4人は以前、Biba-Romというバンドで一緒にプレイしていた)をバンドに

誘う。

ミラーキーはシンガー、ギタリスト、サックス奏者として確立され、

彼の友人であるAllan McNeill(アラン・マクニール G,1977)がサード・

ギタリストとして加入し、ラインアップは完成した。

カーとバーチルも、それぞれキーボードとバイオリンを担当した。

Johnny & The Self-Abusersは、1977年4月11日の復活祭の月曜日に、

グラスゴーのパブで最初のギグを行った。バンドは2週間後にエジンバラで

ジェネレーションXのサポートを行い、グラスゴーで夏のコンサートを

行ったが、すぐに2つの派閥に分かれ、一方はミラーキーとマクニール、

もう一方はドナルドとマッギーがカー、バーチルを支持した。

バンドは唯一のシングル『Saints and Sinners』をChiswick Recordsより

リリースした日に分裂し、ミラーキーとマクニールはThe Cuban Heelsを結成。

カー、バーチル、ドナルド、マッギーの4人は、あからさまなパンクさを捨てて、

シンプル・マインズ(デヴィッド・ボウイの曲『The Jean Genie』の歌詞に

ちなんで名付けられた)として一緒に活動を続け、1978年1月17日、

グラスゴーのサテライト・シティーで彼らの最初のパフォーマンスを行った。

 

 

1978年1月、バンドはDuncan Barnwell(ダンカン・バーンウェル)をセカンド

ギタリストとして採用(ツインギターのラインアップを可能にすると同時に、

バーチルがバイオリンを弾けるようにした)。また、カーはキーボードから

ヴォーカルに完全に移行した。

同年3月、カー、バーチル、ドナルド、バーンウェル、マッギーのラインアップに、

バーラ生まれのキーボード奏者Michael MacNeil(ミック・マクニール)が加入。

バンドはグラスゴーのマーズ・バーで定期的に演奏した。また、スコットランドの

さまざまな会場で演奏し、エキサイティングなライヴアクトとしての評判を

急速に確立した。

しかし、最終的なシンプル・マインズのメンバーは1978年末まで決まらず、

トニー・ドナルドは、最初のシンプル・マインズのデモテープがレコーディング

される前の1978年4月に脱退(彼は後にバーチルのギターテックになった)、

後任ベーシストとしてダンカン・バーンウェルの友人であるデレク・フォーブス

(1978–1985,1996–1998)が加入した。

1978年11月、バーンウェルが解雇され、カー、バーチル、マクニール、

フォーブス、マッギーの残りの5人(一般的にシンプル・マインズのもっとも

有名なラインアップと見なされている)は、デビュー・アルバムに収録する

曲のリハーサルを始めた。

1979年3月27日、バンドはBBCのオールド・グレイ・ホイッスル・テストで

初のテレビ出演を果たし、『Chelsea Girl』と『Life in a Day』を演奏した。

1979年、John Leckieによるプロデュースのデビューアルバム『Life in a Day』は

Zoom Recordsからリリースされた。アルバムのタイトルトラック

『Life in a Day』はシングルとしてリリースされ、イギリスのシングルチャートに

2週間留まった。アルバムはイギリスのチャートで30位に達した。

 

 

2ndアルバム『Real to Real Cacophony』は、『Life in a Day』のポップチューン

から大きくかけ離れたものであった。アルバムはより暗く、はるかに実験的な

雰囲気を持ち、次の2枚のアルバムでバンドのトレードマークとなったサウンド

ニュー・ウェイヴの実験音楽/ミニマル・ミュージックのいくつかをリリースした。

バンドが『Real to Real Cacophony』で示した革新には、フォーブスとマッギーの

リズム・セクションに基づくミニマリスト構造と、型にはまらない拍子記号の

時折の使用が含まれていた。バンドはまた、ダブの要素を取り入れ、『Veldt』を

含め、電子ブザー、バーチルの即興のサックスライン、カーのチャントと叫びを

使用してアフリカの風景の印象をつくり出した。

アルバムはシングル『Changeling』も生み出した。バンドは「Real to Real

Cacophony Tour」でヨーロッパとイギリスをツアーし、ニューヨークで短期間の

ツアーを行った。

1979年10月、バンドはイギリスのテレビ音楽番組「The Old Grey Whistle Test」で

『Premonition』、『Factory』、『Changeling』の曲を演奏した。

『Real to Real Cacophony』は、ピーター・ガブリエルから注目され、1980年

8月から始まるヨーロッパ・ツアーの日程のいくつかをサポートするバンドに

シンプル・マインズが選ばれた。

1980年リリースの『Empires and Dance』は、マクニールのキーボードとフォーブスの

ベースがバンドのサウンドの主要なメロディー要素になり、バーチルの重く処理された

ギターがよりテクスチャー要素になった。

このアルバムで、カーはバンドがヨーロッパをツアーしたときに、彼が観察したことに

基づいた、物語のない歌詞を試し始めた。

ささやかな商業的成功を収めながら、『Empires and Dance』はイギリスの音楽プレスで

熱狂的な反応を受け、ピーター・ガブリエルのサポート・アクトとしてのツアーは、

バンドに大きな会場で演奏する機会を与えた。

 

 

1981年、バンドはレーベルをAristaからVirginに移籍。

翌年、Aristaは以前の3枚のアルバムのトラックをフィーチャーしたコンピレーション・

アルバム『Celebration』をリリースする。

バンドはVirgin移籍後、Steve Hillage(スティーヴ・ヒレッジ)がプロデュースした

初のアルバム『Sons and Fascination/Sister Feelings Call』をリリース。

このアルバムは、2つの別々のアルバムで同時にリリースされた。場合によっては

2枚組LPとして販売された。

『The American』『Love Song』『Sweat in Bullet』がシングルとしてリリースされ、

『Love Song』は国際的なヒットとなり(カナダとオーストラリアでトップ20に達した)。

インストゥルメンタルの『Theme for Great Cities』は1981年11月1日にStiff Recordsから

リリースされたアメリカのみのコンピレーション・アルバム『Themes For Great Cities –

Definitive Collection 79-81』に収録された。

 

 

ドラマーのブライアン・マッギーは『Sons and Fascination/Sister Feelings Call』の

セッションの終わりに、シンプル・マインズの絶え間ないツアー・スケジュールによる

疲労と、家でもっと家族と一緒に過ごす時間が欲しいという理由でバンドを去った。

彼はまた、バンドで十分な信用を得られなかったことに失望した。

マッギーの後任としてKenny Hyslop(ケニー・ハイスロップ 1981–1982)が加入。

ニューヨーク音楽(ファンク、ヒップホップ、ダンスを含む)への彼の関心は、

バンドの音楽的発展に即座に影響を与えた(『New Gold Dream (81–82–83–84)』の

トラック3.『Promised You a Miracle』は、バンドのツアーバスで彼が演奏した

カセットの1つからのファンク・リフに基づく)。

ハイスロップはバンドやそのマネージメントに「合わなかった」ため、1982年初頭の

「Sons and Fascination Tour」の第2部で脱退。後任としてキルマーノック生まれの

パーカッショニストMike Ogletree(マイク・オグルトゥリー 元Café Jacquesの

ドラマー)が参加した。彼は『New Gold Dream (81–82–83–84)』となる曲のドラム

パートを書き、演奏した。Ogletree はまた、テレビでバンドと一緒に演奏し、

「Sons and Fascination Tour」の第2部にも出演した。

 

 

1982年、『New Gold Dream (81–82–83–84)』がリリースされ、アルバムから

チャート入りしたシングル『Glittering Prize』(イギリスのトップ20位、

オーストラリアのトップ10に達した)を含む『Somewhere In Summertime』、

『Promised You a Miracle』の3つが収録されている。

このアルバムは商業的なブレークスルーとなり、いくつかのトラック

(『Promised You a Miracle』、『Colours Fly and Catherine Wheel』) は

「Sons and Fascination」で完成された形成を継続したが、

他のトラック(『Somewhere In Summertime』、『Glittering Prize』)は

純粋なポップであった。ジャズ・キーボーディストのハービー・ハンコックが

トラック8.『Hunter and the Hunted』でシンセソロを演奏した。

バンドは1982年9月に大規模な「New Gold Tour」に乗り出し、イギリス、

オーストラリア、ニュージーランド、カナダでの日程が含まれていた。

マイク・オグルトゥリーはツアーの最初に演奏したが、同年11月にバンドを離れ、

フィクション・ファクトリーに参加した。残りの日程でメル・ゲイナーがバンドの

正式メンバーとして採用された。シンプル・マインズの最初のスコットランド人

以外のメンバーであるゲイナーは、次の数十年で3回脱退したにもかかわらず、

バンドの最長のドラマー(中心人物のバーチルとカーを除くメンバー)になった。

ツアーの第2部は1983年3月に始まり、ヨーロッパ、アメリカ、カナダでの

日程が含まれていた。7月にはデンマークのRoskilde Festivalやベルギーの

Rock Werchterなどのフェスティバルに出演した。

1984年のアルバム『Sparkle in the Rain』は、Steve Lillywhiteによって

プロデュースされ、シングル『Waterfront』、『Speed Your Love to Me』、

Up on the Catwalk』がリリースされた。

『Sparkle in the Rain』はイギリス、ニュージーランドでチャートで1位に達し、

スイス、スウェーデン、ノルウェー、ドイツ、オランダ、カナダ、オーストラリアで

トップ20にランクインした。

1984年、ジム・カーはプリテンダーズのクリッシー・ハインド(クリスティーン・

カーに改名)と結婚した。北アメリカツアーのヘッドライナーを務めたハインドが

カーの娘を妊娠中、シンプル・マインズがチャイナ・クライシスとプリテンダーズを

サポートした。2人の結婚は1990年まで続いた。

 

 

イギリス、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリアでのバンドの新たな人気にも

かかわらず、シンプル・マインズはアメリカでは本質的に知られていなかった。

リリースに対して「第一拒否権」を持っていたアリスタUSAによって取り上げられ

なかった。1985年の映画「The Breakfast Club」のオープニング・トラック

『Don’t You (Forget About Me)』で唯一のアメリカでのポップ ヒットを達成

したときに、バンドをアメリカ市場に参入させた。この曲はキース・フォーシーと

スティーヴ・シフによって書かれた。

バンドがレコーディングに同意する前に、フォーシーはこの曲をビリー・アイドルと

ブライアン・フェリーに提供した。

この曲はすぐに、世界中の多くの国でチャートのトップになった。

この頃、バンドを支えていた仲間意識がほころび始め、その後10年間、

バンドのラインアップは頻繁に変更された。ジム・カーは後に、

「あの頃私たちは疲れ果てていました。周りに鈍感になって、気が付けばバンドは

崩壊し始めていました。私たちは若いころから一緒に成長してきて、政治的、精神的、

芸術的に共に成長することを意図していました。しかし、私たちはお互いに疲れて

いました。

最初の犠牲者はベーシストのデレク・フォーブスで、カーと喧嘩を始めていた。

フォーブスはリハーサルに出てこなくなり、解雇された。フォーブスの後任として

元ブランドXのベーシスト、John Giblin(ジョン・ギブリン)が加入。

ギブリンは、シンプル・マインズとのフィラデルフィアのライヴエイド出演で

デビューを飾り、バンドは『Ghost Dancing』、『Don’t You (Forget About Me)』、

Promised You a Miracle』の3曲を演奏した。

シンプル・マインズは、ライヴエイドのフィラデルフィアの区画を演奏するように

アプローチされた最初のバンドであった。

 

 

1985年、アルバム『Once Upon a Time (1985)』をリリース。元シックの

ロビン・クラークは、アルバム全体でカーとコールアンドレスポンスの

ヴォーカルを担当し(実質的に2番目のリード・シンガーになった)、

ミュージック・ビデオは当時、頻繁に取り上げられた。

彼らのメジャーへの画期的なシングル『Don’t You (Forget About Me)』が

含まれていなかったという事実にもかかわらず、レコードはイギリスで1位、

アメリカで10位に達した。

1985年のアルバム『Once Upon a Time』は、4つの世界的なヒットシングル

(『Alive and Kicking』、『Sanctify Yourself』、『Ghost Dancing』、

『All the Things She Said』を生み出し、『All the Things She Said』の

ミュージックビデオは、ペット・ショップ・ボーイズやアート・オブ・ノイズなどの

ミュージック・ビデオで革新的なテクニックを使用したZbigniew Rybczyńskiが

手掛けた。

バンドはツアーも行い、ロビン・クラークとパーカッショニストの

スー・ハジョプロスの両方がライブラインアップに追加された。

シンプル・マインズのステージでの圧倒的な存在感と、キリスト教の象徴主義を

取り入れた歌詞のために、バンドは音楽プレスの一部から「U2の亜流バージョン」と

して批判された。

 

 

1988年までに、バンドはスコットランドにBonnie Wee Studioというレコーディング・

スタジオを建設した。『Once Upon a Time』をサポートするための長いツアーの後、

バンドは新しい曲の執筆を開始した。

シンプル・マインズは、当時投獄されていたネルソン・マンデラとの連帯の表明と

して、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで開催されたコンサート、

「ネルソン・マンデラ生誕70周年コンサート」にサインアップした最初のバンドであった。

関係するバンドは、イベントのために特別に曲をプロデュースするように依頼された。

シンプル・マインズは、それをプロデュースした唯一のアクトであった。

『Mandela Day』はピーター・ガブリエルの『Biko』のカヴァー・ヴァージョンとともに

『Ballad of the Streets EP』でリリースされ、イギリスのシングル チャートで

位に達した。

 

 

1989年、アルバム『Street Fighting Years』(プロデュースはトレヴァー・ホーンと

スティーヴン・リプソン)は、『Once Upon a Time』のアメリカン・ソウルと

ゴスペルの影響から離れ、サウンドトラックの雰囲気と、アコースティックおよび

フォーク・ミュージック関連の要素を新たに取り入れたことを支持した。歌詞はより

政治的でもあり、人頭税、ソウェトの町、ベルリンの壁、スコットランド沿岸への

原子力潜水艦の駐留などを取り上げたもの。『Street Fighting Years』の

レコーディング中に、バンドのラインアップの変更があった。メル・ゲイナーと

ジョン・ギブリンはどちらもレコーディングに貢献したが(ギブリンの場合は、

いくつかの執筆にも貢献した)、アルバムのリリースまでに両方ともバンドを離れて

おり、その時までにバンドはカー、バーチル、マクニールのトリオとしてクレジット

されていた。バンドの新たな展開として、著名なセッション・ミュージシャンが

さまざまなベース、ギター、ドラム・トラックを演奏した。ゲイナーのバンドからの

離脱は短いもので、彼は次のツアーのために再雇用された。

このアルバムはイギリスのチャートで1位になり 、 Qマガジンから珍しい5つ星の

レビューを受けた。Rolling Stoneは、レビュアーが政治的空虚であると見なした

ことについてバンドを批判し、あまり肯定的なレビューを受けなかった。

This Is Your Land』はアメリカのリード・シングルに選ばれ、ルー・リードが

ゲストヴォーカリストとして参加したにもかかわらず、ポップチャートにランクイン

することができなかった。

 

 

バンドはメル・ゲイナーと再会し、新しいベーシストとしてMalcolm Foster

(マルコム・フォスター 元プリテンダーズ) を迎え、レベル42のバッキング

ヴォーカリストであるAnnie McCaig(アニー・マッケイグ)、パーカッショニストの

Andy Duncan(アンディ・ダンカン)、バイオリニストのLisa Germano

(リサ・ジェルマーノ)の3人のツアーメンバーを採用してライヴバンドを拡大した。

ツアーは1989年5月に始まり、ウェンブリー・スタジアムのヘッドライナーを務めた。

「Street Fighting Years tour」の終わりに、バンドはアムステルダムに行って

新しいアルバムのレコーディングを開始する計画を立てるが、ツアーの終了直前に

マイケル・マクニールは、休憩が必要なためバンドに参加しないことを発表した。

マクニールは、1週間後にブリスベンでシンプルマインズとの最後のコンサートを

行った。当時、マクニールの脱退は健康上の懸念によるものだったが、彼は徐々に

バンドのライフスタイルやツアーのスケジュールに幻滅を感じていた。

ほぼ同時に、長年のマネージャーであるブルース・フィンドレーが解任され、その後

数年間でバンドは徐々に変化し、創設メンバーであるカーとバーチルを中心に

メンバーか変動した

(2009年12月、カーは、マクニールの離脱は「重症の骨折」であったと述べたが、

元バンドメイトに敬意を表し、マクニールはかけがえのない存在だったと語った)。

バンドは録音を続け、必要に応じてキーボード奏者を採用した。

1991年、バンドはアルバム『Real Life』で復活を果たす。アルバムのカヴァーには、

カー、バーチル、ゲイナーの3人が描かれており、すべての曲の作曲クレジットは

カー/バーチルであった。アルバムはイギリスで2位に達し、4つのトップ40シングルも

生み出した。『See the Lights』がバンドのアメリカにおける最後のトップ40

ポップシングルであった。

1992年、メル・ゲイナーはセッション・ワークやその他のプロジェクトを追求する

ためにバンドを去った。その後2年間、シンプル・マインズは活動を休止し、

1992年にコンピレーション・アルバム『Glittering Prize 81/92』をリリースした。

 

 

1994年後半、バンドは活動を再開。この時点で、バンドは正式にカーとバーチルの

デュオとなった(バーチルはスタジオでキーボードとギターを担当)。Keith Forsey

(キース・フォーシー 『Don’t You (Forget About Me)』 の作者)を

プロデューサーとして雇い、彼らは『Once Upon a Time』時代の高揚感のある

アリーナ・ロックの雰囲気に戻ったアルバムの制作にとりかかる。ゲイナーが姿を

消したため、残りの楽器はセッションミュージシャンによってカヴァーされた

(ただし、レコーディングの時のベーシストにはマルコム・フォスターが含まれていた)。

1995年、アルバム『Good News from the Next World』をリリース。バンドはアルバムを

宣伝するためにツアーを行い、マルコム・フォスターとMark Taylor(マーク・テイラー

Key,1991–1999; 2005–07)、『Good News from the Next World tour』のアルバムで

演奏したMark Schulman(マーク・シュルマン 1994–1995)がツアーメンバーとして

参加した。

ヴァージン・レコードとの契約解除後、バンドは元メンバのデレク・フォーブスと

ブライアン・マッギー(それぞれ11年と14年ぶりの復帰)のスキルを利用した。

マッギーはリハーサル段階以外には関与していなかったが、フォーブスは1996年7月、

正式にバンドに復帰した。その後、バンドは 1997 年初頭にスタジオ セッションの

ためにメル・ゲイナーと再会した(再びキーボードでマーク・テイラーをフィーチャー)。

 

 

1998年、アルバム『Néapolis』をリリース。フォーブスがすべてのトラックで

ベースを演奏し、ゲイナーが1曲『War Babies』で演奏した。他のドラムトラックは

セッション プレーヤーのMichael NiggsとJim McDermottによってレコーディングされ、

Transglobal Underground / FurnitureドラマーのHamilton Leeによる追加の

パーカッション・プログラミングが行われた。これは、興味の欠如を理由にアメリカでの

リリースを拒否したクリサリス・レコードによってリリースされたバンドの唯一の

アルバムであった。アルバムのリードシングルである『Glitterball』のミュージック

ビデオは、スペイン、ビルバオのグッゲンハイム美術館で撮影された最初の作品で

あった。

バンドのメインソングライティングチームとして、カーとバーチルは自分たちで

マテリアルを書き溜め、デモを制作し続けた。

最新のセッションでは、ジム・カーの兄弟マーク(元Gunのドラマー)と

ベースギタリストのEddie Duffy(エディ・ダフィー)をフィーチャーし、

アメリカのソングライター、ケビン・ハンターと一緒に働いていたSly Silver Slyと

呼ばれるバンドとスタジオ・スペースを共有していた。

スタジオにいる間、2つの執筆およびレコーディング・プロジェクト(ハンターの

共同執筆者を含む)が統合され、バンドの次のアルバム『Our Secrets Are the Same』の

セッションとなった。

フォーブスとゲイナーは再びバンドを脱退。マーク・カーが新しいドラマーになり、

エディ・ダフィーがベースギターに加わった。

 

 

新しく生まれ変わったシンプル マインズは、Scotland For Kosovo festivalで、

マーク・テイラーがキーボードで復帰し、短いベスト ヒットでデビューを飾った。

シンプル マインズから追い出されたフォーブスとゲイナーは、同じコンサートで

演奏するために新しいバンドを結成した。

『Our Secrets Are the Same』をクリサリスに配信した後、バンドはレーベルの

策略に巻き込まれ、クリサリス、EMI、および他の会社が互いに合併しようとして

いることに気付く。もともと1999年後半にリリースされる予定だったアルバムは、

バンドがクリサリスとの訴訟に巻き込まれた後、未発表のままであった。

2000年、『Our Secrets Are the Same』の状況はさらに複雑になっていく。

曲がインターネット上に流出し、レーベルが問題を解決できなかったこと。

そして、バンドは勢いとアルバム販売の両方が失われたことに落胆し、再び

休止状態となる。

エディ・ダフィ、マーク・テイラー、マーク・カーは全員、他のプロジェクトに

移った。

ジム・カーはシチリアに移り、ホテル経営者としてパートタイムのキャリアを

始めたが、彼とバーチルはさまざまなビジネス上の利益のために協力し続け、

バンドのアイデアを生かし続けた。

 

 

2001年、ジム・カーとチャーリー・バーチルは、マルチインストゥルメンタリストの

ゴードン・グーディ(元プライミーバルズ)と一緒に新しいシンプル・マインズの

アルバム『Cry』を制作し始めた。マーク・カーもこのプロジェクトに貢献し

(今回はアコースティック・ギタリスト、バーチルのいくつかの曲の共作者として)

カーはプラネット・ファンクやパンク・インヴェスティゲーションを含む様々な

イタリアのミュージシャンを協力者として連れてきた。

バンドは『Cry』と並行して、Patti Smith、Roxy Music、Kraftwerkなどの

アーティストの曲のシンプル マインズバージョンをフィーチャーした

『Neon Lights』と呼ばれるカヴァー・アルバムもレコーディングした。

2001年後半『Neon Lights』が最初に完成しリリースされた。

ネオンライツのシングル「ダンシング・ベアフット」のビデオでは、バンドは

ジム・カー、チャーリー・バーチル、ゴードン・グーディ、マーク・カーで

構成されていた. その後すぐに、2枚組のコンピレーション・アルバム

『The Best of Simple Minds』がリリースされた。

2002年、アルバム『Cry』をリリース。このアルバムはアメリカではあまり

ヒットしなかったが、バンドは「Floating World Tour」(アルバムを締めくくる

インストゥルメンタルトラックにちなんで名付けられた)の北アメリカへの

行程に自信を持っていた。

ゴードン・グーディがスタジオにとどまることを選択した(マーク・カーが再び

バンドを脱退) ことで、バンドは再びメル・ゲイナーをツアー・ドラマーとして

採用。ライヴバンドは、ベースギターのエディ・ダフィーが戻り、キーボード

プレーヤー、プログラマーのAndy Gillespie(アンディ・ガレスピー)が新しく

参加した。

2003年、キャピトルは4時間20分以上のアーカイヴ映像を収録した、バンド史上

初のプロモーションDVDである『Seen The Lights – A Visual History』を

リリースした。最初のディスクには、バンドのプロモーション・ビデオの大部分が

含まれている。2番目のディスクは、1990年にVHS形式で最初にリリースされた

バンドの最初のビデオであるVeronaのライヴ映像。

2004年、『Silver Box』という5枚組のコンピレーション・アルバムをリリース。

これは主に、1979年から1995年までの未発表のデモ、ラジオとテレビのセッション、

およびライヴ映像を収録したものと、遅れていた『Our Secrets Are the Same』も

含まれていた。

 

 

2005年9月12日にカー、バーチル、ダフィー、ゲイナーのラインアップで、

『Black White 050505』(14枚目のスタジオアルバム) をリリース。

イギリスでは37位に達し、北アメリカではリリースされなかった。

バンドは2006年にヨーロッパ、極東、オーストラリア、ニュージーランドを巡る

ブラック アンド ホワイト ツアー (キーボードはマーク・テイラー) で活動した。

2007年はバンドの30周年を迎え、バンドはINXSのゲストとしてオーストラリアと

ニュージーランドの短いツアーに乗り出した。

2008年6月、カーとバーチルは、デレク・フォーブス、ミック・マクニール、

ブライアン・マッギーと、スタジオのリハーサルとバンドのミーティングの日に

つながったとき、27年ぶりに完全なオリジナルのラインアップと簡単に再会した。

しかし、バンドの管理とすべてのメンバーの平等な地位に関する意見の相違を

めぐり、急速な崩壊につながった。

バンドはカー、バーチル、ダフィー、ゲイナーのラインアップに戻り、

2009年、アルバム『Graffiti Soul』をリリース。

新しいレコードレーベル、W14 /ユニバーサルレーベルは、2009年初頭に

サンクチュアリレーベルを買収した。

その後はライヴ活動を積極的に行うようになり、ライヴアルバムのリリースが続く。

 

 

2011年、ライヴアルバム『Live 2011』をリリース。

2012年、ライヴアルバム『5 x 5』をリリース。

2013年、新曲を含む通算3枚目となるベストアルバム『Celebrate: The Greatest Hits』を

リリース。

2014年、地元グラスゴーでのライヴを収めた初のBlu-ray作品

『Celebrate: Live at the Glasgow See Hydro』をリリース。DVD+CDの形態でもリリース

された。また、同年11月には、5年ぶりのアルバム『Big Music』がリリースされ、

イギリスのチャートで12位に達した。

2016年、17thアルバム『Acoustic』をリリース。

2018年、18thアルバム『Walk Between Worlds』をリリース。イギリスのチャートで4位に

達した。

 

 

 

 

Simple Minds – Promised You a Miracle

 

Simple Minds – Someone Somewhere in Summertime

 

Simple Minds – Don’t You (Forget About Me)

 

Simple Minds – Alive And Kicking

 

 

 

 

 

 

Tears for Fears

Tears for Fears(ティアーズ・フォー・フィアーズ)は、イギリスのポップロック

バンド。

1981年、バースでRoland Orzabal(ローランド・オーザバル)とCurt Smith

(カート・スミス)によって結成された。

バンド名は、心理学者アーサー・ヤノフの著書『Prisoners of Pain』に登場する

章題からそのまま取られている。直訳は「恐れのための涙」。ヤノフの提唱した

心理療法である原初療法(ジョン・レノンらも受けたと伝えられる)は

「恐怖や心の痛み(Pain)を心にしまわないで、子供のように声に出して叫べ

(Shout)、泣け」というもの。ティアーズ・フォー・フィアーズの初期の歌詞に

「Pain」「Shout」という言葉が頻出するのはそこから来ている。

 

 

両親の離婚に伴いポーツマスからバースへ移り住んだローランド・オーザバルは、

同じく離婚家庭に育ったカート・スミスと13歳のときに出会い、一緒に音楽活動を

するようになる。この両親の離婚、残された子供たちの心の痛みと悲嘆という

テーマは、ティアーズ・フォー・フィアーズ初期の活動に重要な影響を及ぼしていく。

ティアーズ・フォー・フィアーズ始動以前に彼らが活動していたバンドには

グラデュエイト、ネオン(Neon)等がある。

グラデュエイトは1979年に結成されたモッズ・スタイルのスカ・バンドであり、

翌年にアルバム『Acting My Age』及びシングル『Elvis Should Play Ska』を

リリース。シングルはイギリスよりスペインなどヨーロッパで好評を博した。

 

 

ローランドとカートは2人が核となる音楽を求めて、ティアーズ・フォー・フィアーズ

(以下、TFF)の名称で活動を始めた。

彼らはフォノグラムと契約し、1981年、デビュー・シングル『Suffer the Children』を

リリース。

やがてローランドとカートは音楽上のパートナーを探していたキーボーディストの

イアン・スタンリーと出会う。

1983年リリースのシングル『Pale Shelter』、『Change』、『Mad World』がヒット。

同年、デビューアルバム『The Hurting』をリリース。イギリスのアルバムチャートで

1位を記録する。イアン・スタンリー、ネオン時代の友人であるマニー・エリアス(Ds)を

正式メンバーとし、アンディ・デイヴィスをサポート・キーボード奏者として迎え、

バンドはイギリス国内のツアーを行った。しかし次のシングル『The Way You Are』が

ヒットせず、バンドは新たなアイデア作りの時間をとるため、音楽シーンから一旦

姿を消す。

 

 

約1年近いブランクの間、彼らは新しいTFFサウンドを練り直すことに専念していた。

イアン・スタンリー、マニー・エリアス、そして5番目のメンバー的な存在と

なっていたプロデューサーのクリス・ヒューズと共に生み出されたサウンドは

より力強くキャッチーなものとなった。

1984年、アルバム『Songs from the Big Chair』をリリース。シングル

『Mothers Talk』、『Shout』、『Everybody Wants to Rule the World』、

『Head over Heels』、『I Believe (A Soulful Re-Recording)』を収録。

先行リリースされたシングル『Shout』のミュージックビデオは、MTVの頻繁な

オンエアも手伝い、イギリスシングルチャート2位、ビルボードホット100で

1位を記録。

続いて『Everybody Wants to Rule the World』がイギリス・アメリカで1位、

『Head Over Heels』がアメリカで3位に達した。

『Songs from the Big Chair』は世界中で1000万枚のセールスを記録、これまでで

最も成功したアルバムとなり、TFFの名は世界中に知られることとなった。

大々的なワールド・ツアーが行われ、ツアーに次ぐツアーの日々で疲れ果てた

ローランドとカートの仲も悪化し、解散を意識するまでに至る。

そんなとき、カンザスシティのホテル・バーでふと耳にした黒人女性の歌に大きな

感動を覚えた彼らは、自分たちの音楽の方向性に疑問を持ち始める。

ツアーを終え、新しいアルバム作りに取りかかるも、これまでのTFFサウンドの枠から

出ないイアン・スタンリーやクリス・ヒューズとの音作りにローランドとカートは

満足できなくなっていた。

カンザスシティでのオリータ・アダムスとの出会いに新たなエモーションを得た

ローランドとカートは、全くの無名だった彼女を抜擢。新たなアルバム作りに向けて

ゲスト参加を要請する(オリータはその後、ローランドのプロデュースで

ソロ・デビュー。グラミー賞候補になるなど大きな評価を受けた)。

オリータのヴォーカルとピアノに加え、 フィル・コリンズ、ピノ・パラディーノ、

マヌ・カチェ、ニッキー・ホランド等の多彩なゲスト・ミュージシャンを迎えて

作られた新たなTFFサウンドは、これまでの彼らのスタジオ・ワークにはほとんど

見られなかった

ライヴ感を強く感じさせるものとなった。本作の時点でイアンとマニーはすでに

脱退しており、以降、パーマネント・メンバーを加えずに、TFFはローランドとカートの

デュオ(またはローランドのソロ)を核にサポートを加えてバンド・サウンドを展開する

スタイルとなっていく。

 

 

1989年8月にリリースされたシングル『The Seeds of Love』はイギリスで5位、アメリカで

2位となり、またアルバム『The Seeds of Love』もイギリスで1位、アメリカで8位に

達した。

全世界から大好評をもって迎えられた「The Seeds of Love Tour」だったが、その

最中にローランドとカートの不和が表面化する。多くのミュージシャンが参加した

イベント・ライヴ「Live At Knebworth」のオープニング・アクトでツアーは幕を閉じたが、

ツアー終了後になって、ニューヨークに移り住んだカートが音楽誌に突然TFF脱退を発表。

ローランドはカート脱退直後にベストアルバム『Tears Roll Down (Greatest Hits 82–92)』を

リリース。

 

 

ローランドとカートとの間には権利関係など様々な問題が残ったが、結局はローランドが

TFFの名を相続し、結果的にソロ・プロジェクトとなった。

一方、カートはソロ・アルバムや自分のバンド、Mayfield(メイフィールド)等で

アメリカを拠点に活動していくようになる。ローランドは新しいパートナーとして旧友の

アラン・グリフィスを選び、共同プロデューサーにティム・パーマーを迎えて自身の

スタジオでニュー・アルバムのレコーディングを始めた。

1993年、アルバム『Elemental』は、カートのファースト・ソロ・アルバム

『Soul on Board』と競い合うように同時期にリリースされている。

カート脱退後のTFFの音は、より練り上げられて重厚さを増したものとなり、歌詞は

難解さを増した。本作では、カートを風刺したと思われる『Fish out of Water』

(後にカートはアルバム『Mayfield』で『Sun King』というアンサー・ソングをリリース

している)、スタジアム・バンドになってしまい昔の新鮮な情熱を失ってしまった

ほろ苦さを歌った『Goodnight Song』、『Break It Down Again』等が収録されている。

 

 

バンドはフォノグラムからエピック・レコードへと移籍。

1995年、アルバム『Raoul and the Kings of Spain』をリリース。

今までの「心の痛み」といったTFFの音楽性における重要なテーマが影をひそめ、

ローランドの家系(父親はフランス人で、バスク系スペイン人の王族の血を引く)や

家庭についてなどのパーソナルな内容となった。

ちなみに原題にある「Raoul」とは、元々ローランドのあだ名で、彼が息子につけた

名前でもある。

アルバムに伴うワールド・ツアー「Live Kings Tour」も行い、エピックの大々的な

プロモーション戦略によりスペインの古城でライヴ・セッションを行うなど話題を

集めたものの、今作はヒットすることなく終わり、エピックからも契約を切られる。

1996年、ツアー終了の翌月に、シングルB面曲や、コンピレーション・アルバム

収録曲等の未CD化音源をまとめたアルバム『Saturnine Martial & Lunatic』を

リリース。TFFはまたしても沈黙期間に入ってしまう。

 

 

2000年、カートはミニ・アルバム『Aeroplain』をリリース。同年、ローランドも

TFFとしてではなくソロ名義にてアルバム『Tomcats Screaming Outside』を

リリース。

この頃から、オーザバル/スミス体制によるTFFの再結成が噂されるようになった。

噂は事実であり、和解した2人は再び一緒にスタジオでの制作作業を開始した。

2003年にはアンドレ・アガシ主催のイベントにて久々にライヴでの共演も実現。

2004年、約15年ぶりのアルバム『Everybody Loves A Happy Ending』をリリース。

社会への視点をより成熟させ、ポップセンスとビートルズ的な要素に磨きがかかった

内容となった。

ローランドはバースからロサンゼルスのスミス家近くに居を移した。2人はさまざまな

メディアで再結成をアピールし、アメリカ、ヨーロッパのツアーも精力的に行った。

2006年には前年にパリで行われたライヴの模様を収めたCD+DVD

『Secret World Live in Paris』がフランスでリリースされ、本国イギリスの

輸入盤チャートにて長期にわたり上位にランクインした。

以降もアメリカを中心としながらも世界各地で毎年のようにライヴを行うなど

マイペースに活動を続けている。

 

 

2013年、新作アルバムのレコーディング中であることを発表。

2014年、アルバム『Ready Boy & Girls?』をリリース。

2017年7月、インタビューにて新作のタイトルが『The Tipping Point』となることと、

収録曲からいくつかのタイトルについてなどが語られた。同年11月、新曲2曲を含む

ベストアルバム『Rule the World: The Greatest Hits』をリリース。

2021年3月13日付の『ビルボード』誌において『Everybody Wants to Rule the World』が

「Alternative Digital Song Sales」のチャートで1位を獲得。

1985年6月に2週にわたってビルボードホット100で1位を記録して以来、36年ぶりの

チャート1位となる。

2022年2月25日、約17年ぶりとなる通算7作目のアルバム『The Tipping Point』を

リリース。イギリスで2位、アメリカで8位の大ヒットを記録した。

 

 

Tears for Fears – Pale Shelter

 

Tears For Fears – Shout

 

Tears for Fears – Everybody Wants to Rule the World

 

Tears For Fears – Mothers Talk

 

 

 

 

 

 

Ultravox

Ultravox(ウルトラヴォックス)は、イングランド出身のロック・バンド。

バンドの創設者ジョン・フォックスが在籍した時期(1975年 – 1978年)は、

ニュー・ウェイヴの先駆けとして活躍した。

サウンド的にはジャーマンロック、ロキシー・ミュージック、ヴェルヴェット・

アンダーグラウンドの影響が感じられる(ファースト・アルバムの音楽性は

ジョン・フォックス自身が影響を受けたと公言しているニューヨーク・ドールズや

同時代のパブロックにも通じている)。

 

 

1974年、Dennis Leigh(のちのジョン・フォックス Vo)は、Ultravox!

(ウルトラヴォックス!)の前身バンド、Tiger Lilyを結成。

ラインアップはChris St. John(本名:クリス・クロス B)、Stevie Shears

(スティービー・シアーズ G)、Warren Cann(ウォーレン・カン Ds)、

Billy Currie(ビリー・カリー Violin, Key)。

Tiger Lilyはブライアン・イーノ、Steve Lillywhite(スティーヴ・リリーホワイト)

との共同プロデュースによる唯一のシングル『Ain’t Misbehavin』をリリースした。

バンドは結成以来さまざまな段階を経て、Tiger Lilyは長い間レーベルから

ドロップされ、「The Zips」、「Fire of London」、「London Soundtrack」と

変名を経て「The Damned」とさえ呼ばれていた時期があった(1976年、すでに

同名のパンクロックバンドが存在していた)。

バンドは1976年にIsland Recordsと契約を締結。この時点でバンド名が決まって

おらず、1976年、デビューアルバムの制作中にウルトラヴォックスという名前を

思いついた。「ウルトラヴォックス!」の「!(感嘆符)」は、後に3枚のアルバムを

プロデュースしたConny Plank(コニー・プランク)によって考案された、

ドイツのクラウトロックバンド「Neu!」(ノイ!)への言及であった

(3rdアルバム『Systems of Romance』の頃より「!」が省略された)。

ブライアン・イーノとスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに迎え

1976年、デビューアルバム『Ultravox!』をリリース。

1978年、スティーヴ・リリーホワイトとUltravox!のプロデュースによる2ndアルバム

『Ha!-Ha!-Ha!』は、急成長中のパンク・ムーヴメントの影響をかなり受けた、

ポストパンクのスタイルであった。

1978年、3rdアルバム『Systems of Romance』をリリース。

コニー・プランクのプロデュースによるアルバムは、当時としてはあまりにも

革新的で商業的な成功を収めるまでには至らず、リーダーのジョン・フォックスは

バンドを脱退してソロ活動をスタートさせる。

セールス面では成果を残すことのできなかった初期ウルトラヴォックスだが、

彼らの音楽は後のシンセサイザーやシーケンサーのサウンドを強調した

エレクトロ・ポップ・ムーヴメントの先駆としてロックの歴史に残ることと

なり、ゲイリー・ニューマン、ヒューマン・リーグ、ジャパン、OMD

(オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク)など数多くの

フォロワーを生み出した。

 

 

ジョン・フォックス脱退後は新しいヴォーカリスト兼ソングライターとして、

リッチ・キッズやヴィサージのメンバーであったMidge Ure(ミッジ・ユーロ)が

加入する。

1980年、コニー・プランクのプロデュースによりアルバム『Vienna』をリリース。

New Europeans』(日本でサントリーのテレビCMに使用された)他、

『Sleepwalk』、『Passing Strangers』、タイトルトラックの『Vienna』、

All Stood Still』の4つのシングルを収録。

『Vienna』はジョン・フォックス時代と比較するとサウンドの方向性をより

コマーシャルに変化させたことにより、セールス的にも大成功をおさめる。

1981年リリースのアルバム『Rage in Eden』もコニー・プランクがプロデュースを

務め、レコーディングはドイツ・ケルンにあるプランク所有のスタジオで行われた。

『Rage in Eden』はイギリスで4位に達し、アルバムからの2つのシングル

『The Thin Wall』、『The Voice』がリリースされ、それぞれ14位と16位に達し、

どちらもイギリスのトップ20にランクインするなど、アルバムは前作以上の成功と

なった。

しかし、シンセサイザーの音を強調したシンセポップという方向性はそれ以降

徐々に失われることとなる。

 

 

1982年、アルバム『Quartet』をリリース。長年つとめたコニー・プランクから、

ビートルズとの仕事で有名なジョージ・マーティンにプロデューサーが交代。

彼がこの仕事を選んだのは、娘がウルトラヴォックスのファンであったから

引き受けたと、のちに語っている。

アルバムから『Reap the Wild Wind』、『Hymn』、『Visions in Blue』、

『We Came to Dance』がシングルとしてリリースされ、『Reap the Wild Wind』は

12位、『Hymn』は11位、1983年には『Visions in Blue』と『We Came to Dance』が

それぞれ15位と18位にランクインした。

『Quartet』はビルボード200で61位に達し、アメリカで最も成功したアルバムとなった。

1984年、セルフプロデュースによるアルバム『Lament』をリリース。ユーロとカリーは、

この時点で自宅にスタジオを建設していた(チズウィックにあるUres Musicfest Studioと、

ノッティング・ヒル・ゲートにあるCurries Hot Food Studio)。

『Lament』は、バンドのアルバムトップ10を維持し(イギリスのチャートで8位)、

『Dancing with Tears in My Eyes』(イギリスのチャートで3位)、『Lament』 (22位)、

『One Small Day』(27位)を含む3つのトップ40ヒットシングルを生み出した。

同年11月、ミッジ・ユーロはBand Aid(バンド・エイド)発起人のボブ・ゲルドフと

『Do They Know It’s Christmas?』を共同執筆し、プロデュースも行った。

『Do They Know It’s Christmas?』は同年12月にリリースされ、大成功を収めた。

などにつながる一連の大チャリティー・ブームを巻き起こした。バンドメンバーは、

長い休憩を取った後、1985年7月13日に行われたライヴエイドに出演し、4つのヒット

シングル(『Reap the Wild Wind』、『Dancing with Tears in My Eyes』、

『One Small Day』、『Vienna』)を演奏した。

ユーロがソロ・アルバムとツアーに取り組んでいる間、カン、カリー、クロスは

次のアルバムのデモをレコーディングした。

ドラマーのウォーレン・カンは、アルバムをレコーディングする前に「音楽の方向性の

違い」という理由で、バンドから切り捨てられた。

ゲストミュージシャンとしてビッグ・カントリーのドラマー、Mark Brzezickiを

迎えアルバム『U-Vox』をドイツのコニー・プランクのスタジオでレコーディングした。

1986年にリリースされた『U-Vox』アルバムは、イギリスではトップ10アルバムを維持

したが、シングル1986年の『Same Old Story』は31位、『All Fall Down』は30位と、

チャートの低迷がみられた。ユーロは後にアルバムを「ピントが合っていない」と

表現した。

1987年、バンドはツアーの後に継続しないことを決定し、バンドは分裂する。

Currie はIRS Recordsと契約を結び、ソロアルバムをレコーディングした。

クロスは音楽業界から引退し、心理療法士になった。

オリジナル・メンバーはカリーのみとなり、1992年、ヴォーカリストのトニー・

フェネルと共にウルトラヴォックスを再編成し、『Revelation』をレコーディング。

後にSam Blue(サム・ブルー)がフェネルに代って加入し、カリー(Key,viola,

production)、Vinny Burns(G)、Tony Holmes(Ds)、Gary Williams(B)と

いった新しいラインアップで1994年、アルバム『Ingenuity』をリリース。

1993年にイタリアでレコーディングされたライヴアルバム『Future Picture』も

リリース。これらのアルバムはほとんど商業的な成功を収めず、バンドは1996年に

再び解散した。

 

 

2008年11月6日、バンドの公式サイトで、2009年4月にウォーレン・カン、クリス・クロス、

ビリー・カリー、ミッジ・ユーロのメンバー4人で「Return to Eden」というタイトルの

15日間のイギリスツアーを行うと発表された。1985年のライヴエイド以来、バンドの

クラシック・ラインアップが一緒に演奏したのはこれが初めてであった。

最初のショーは2009年4月10日にエディンバラ・プレイハウスで演奏された。

2012年、18年振りとなる11thアルバム『Brill!ant』をリリースし、イギリスで

21位に達した。

同年暮れにツアーを開始し、2013年11月30日、バンドはロンドンの02アリーナで、

シンプル・マインズのアリーナツアーのスペシャルゲストとして演奏し最後のショーを

行った。

2017年1月4日、ビリー・カリーは自身の公式サイトで、43年に及ぶウルトラヴォックスの

メンバーとしての活動に終止符を打つことを決めたと発表した。

2017年12月、ミッジ・ユーロはDaily Expressとのインタビューで、バンドによる

さらなる再編成はありそうもないことを明らかにした。

 

 

Ultravox – All Stood Still

 

Ultravox – Vienna

 

Ultravox – Hymn

 

Ultravox – Dancing With Tears in My Eyes